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Takeda Kingdom!甲斐国は世界を目指す  作者: 登録情報はありません
第10章
117/169

1575年九州征伐(3/4)

粛々と進む秀吉軍、その数150000人。


安国寺恵瓊「ここで二手に分かれ、九州全土を併呑します」

秀吉「ワシもそう思う」


ここで秀吉と秀長は軍を分けた。

 秀吉は筑前を避けて豊後-肥後-薩摩ルート、秀長は豊後-日向-薩摩ルートで進軍した。


次々と道中の城を落とす秀長軍。

九州の小豪族や国衆は、強い側に付き従っているだけだ。


戦うのは、島津家への忠誠を示すために、威勢を見せているに過ぎない。

島津家が九州最大の戦国大名だった時は島津家に従っていただけだ。


という訳で、簡単に秀吉+秀長軍に寝返るのだった。

少しだけ戦った後、すぐに降伏する。


九州征伐軍は中国地方や畿内の主従寝返り派が、実は大半を占めていた。

武田軍や奇妙寺の支配が、どんなに素晴らしいかを説いて回った。


そうすると180度偏向して、恭順するのだった。

そういう輩を次々に味方に引き入れて、秀吉+秀長軍は大きく膨張した。


10万人にも膨れ上がった秀長軍は山田有信の守る新納院・高城に至った。

薩摩の国まで100km、絶対防衛圏である。


有信は島津家子飼いの家臣である。

側仕えから地頭、家老になり、騎射三物では射手も務めた。


島津義久の太刀役で扈従(こしょう)も務めた。

寝返ったり裏切ったりしない、義久に忠義を尽くす近習であった。


説得は無意味だ。

どんな好条件でも応じない。


「よし、兵糧攻めだ」と秀長。

また例の包囲戦が始まった。


ここで島津は、20000人の救援部隊を派遣する。

島津機械化部隊である。


100000vs20000では、もはや話にならなかった。

多勢に無勢、根白坂で大激戦の後に島津軍は撤退した。


九州の小豪族や国衆は固唾をのんで、この対決を見守っていた。

もう大名が結集しても勝てる相手ではなかった。


一方秀吉軍は、博多南蛮要塞の射程距離内を分散して侵攻、岩石城に至った。

岩石城は城兵3000人が必死の抵抗を試みたが、多勢に無勢で攻略に屈した。


 島津側の秋月種実は、近郊の益富城から、この様子(岩石城落城)をうかがっていた。


「ここでは戦にならぬ」と種実。

「城を破壊して脱出せよ」


形勢不利と見た種実は益富城を破壊して脱出。

本拠の古処山城に後退、兵力の集中を図った。


「じゃあ、一日で直すか」と秀吉。


益富城の破損個所を全て一日で直した(ように見せかけた)。

秀吉得意の一夜城作戦である。

これに、まんまと(あざむ)かれ、種実はあっという間に降伏した。


1日で(岩石城が)落城。

3日で(種実勢が)降伏。

城の攻略に5万人の兵。


勝てるわけがない。

島津側に動揺が広がっていた。


秀吉は言った。

「抵抗は無意味だ」

「お前たちを同化する」

「直ちに帰参せよ」


これ以降は無人の野を行くが如くである。

行く先々の地侍は全部帰参した。


やがて薩摩の国に入ると島津の庶流の家柄の大名まで降伏する。

浄土真宗僧侶「この先生きのこることこそ、御家存続の導である」


秀吉は薩摩の浄土真宗勢力をも利用し、怒涛の如く島津家本拠地に迫った。

 唯一抵抗を見せたのが島津家家臣、桂忠詮であったが、これもあっさり退けられた。


秀吉軍、秀長軍は総勢20万にも及ぶ巨大軍団となっていた。

一体誰が、この巨大軍団に拮抗できようか。


もはや抵抗は無意味だった。

島津家はついに降伏した。


当主島津義久は出家し、秀吉に拝謁して口頭で降伏を伝えている。

秀吉は義久を赦免(しゃめん)している。


義久の弟歳久は最後まで抵抗し、その挙げ句に海外に放逐された。

知謀の将であった為、アラビア海を経て、東アフリカ戦線に飛ばされている。


ここはケニア共和国の第二の都市モンバサ。

歳久はこの町の統制官となった。


 内陸のウガンダ、ルワンダ、コンゴ、タンザニアなどの外港として機能する国際都市だ。

4-5月が雨期で、1-2月が乾期の熱帯気候である。


歳久「日本に似ているな」

 ポルトガルが正式に港の使用料を支払い、交易に来ており、ポルトガル人町がある。


ここで奇妙寺は、ポルトガル勢力と拮抗している西アフリカ諸国を支援していた。

ただ支援も過ぎると、毒薬となるため、程々にしていた。


奇妙寺はマラッカの時代から70年に渡り、戦争と商圏の商売を別扱いしていた。

 石油、ゴム、鉄鉱石、ボーキサイトも厳しい制限下で、南蛮への輸出入を許可している。


死活問題にまで制限すると、対立が深刻化し、戦争の遠因となる。

だが制限下での細々とした貿易で「南蛮を生かさず殺さず」締め上げるのだ。


余りも出ず、不足もなく、贅沢もせず、貧乏にもならず、である。

 存分に働いたら盛大に褒め、失敗しても叱責せず「次から頑張れ!」と応援する。


 そうするとヒトは「ここで生きていけばいい!」と根気よく働くようになる傾向がある。

あるいは「ここが私の天職の場なんだ」と解釈するようになる。


これが奇妙寺式WINWINの法則であった。

働き甲斐のある場所で存分に働いてもらう。


 ポルトガル人、スペイン人、後出のイギリス、オランダ人もうつろな目で働いていた。

「働くのが大好きです~」「やり甲斐のある仕事です~」「24時間働けますか~」


南蛮母国から監査役がやって来た。

貿易収支がおかしい、こんなに働いて輸出はこれだけか?


島津歳久は何十冊もの分厚い簿記台帳を取り出して説明する。

その内容は古典落語の「ときそば」のように相手をはぐらかしてしまう。


 監査「生産者から卸売業者にいくのは分かる、だがなんで仲卸業者がこんなに多いんだ?」

島津歳久「地元の八百屋、魚屋が数多く売買参加者としておりまして……」


地元の小売業者が綿密な台帳なんぞ記帳しているワケがない。

青色申告を監査は鵜呑みにするしかない。


秀吉には負けたが、南蛮相手には負けぬ!

歳久は水を得た魚のように知略策謀を画策した。


戦場は現実世界から経営と知財に移っていた。

島津歳久「数式が御座います、計算結果はこちらです」


数式と計算結果は1500ページに及んだ。

監査は目を回しそうな顔をしていた。


他にも巨大市場の市場外流通があり、監査はこんがらがってきた。

独裁国家だと簡単な決済が、ここでは異常な程に複雑だった……。


こうして本国の監査まで巻き込んで、摩訶不思議な商売が行われていた。

全然儲からない……、全力でこれだけ……、投資と利益が釣り合わない。


 日本への出荷は100km北東のマリンディ、130km南西のタンガまで陸路を運び、港から出荷した。

出荷先はインドのムンバイであり、そこからマラッカ経由で日本に回送された。


海へ出ればもう誰も追跡出来ない時代である。

日本への物資は、公然と大量に輸出されていた。


一方、大友義鎮は博多南蛮要塞が無意味になり、ガッカリしていた。

 でっかい要塞で敵軍を屠り、木っ端微塵にしたかったのだろうが、それでは戦術とはいえなかった。


秀吉は戦わずして勝ち、戦えば殲滅するポリシーである。

要塞正面攻撃なんぞ、逆さに振っても、絶対に出てこない戦法だったのだ。

次回は1575年九州征伐(4/4)です。

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