1399年奇妙寺前史000(医療と看護の閃き:把持鉗子)
1399年応永(おうえい)の乱が終結したその年、奇妙寺が爆誕した。
場所は記録に残っていないが甲斐国のどこかであった。
松戸彩円という僧形が起こしたと伝えられている。
戦国の社寺は御家人・地頭を兼ね繁栄したが、奇妙寺にはそういう所はなかった。
赤貧ではあったが、奇妙寺には奇妙なところがあり、それが名前の由来にもなっている。
乱妨取りで奴隷となった赤子や、飢饉で口減らしの憂き目にあった赤子を、引き取っていたのだ。
孤児院である。
善行が目的ではない。
未来の僧形を育てるためだった。
だが運営には資金が必要だ。原資がいる。
彩円は機知に富んだ僧形であった。
彼はそれを医療で賄った。
いわゆる病院である。だがここは中世、戦国時代の真っ只中だ。
理論に基づいた薬品が無い、手術も、治療も、消毒も無い。
だが出来る事はあった。
空気の入れ替え、太陽の光、暖かさ、清潔さや静けさを整える事だ。
これはまず、どんな病気や、外傷の患者にも必要なことだった。
空気の入れ替えは中世ではあまり重要視されていない。
むしろホコリや粉じんが病室に入り込むのを恐れた。
暖かくして横になっている事が一番身体にいいと考えられていた。
それはそれで間違っていない。正しい判断だ。
だが当時は室温の低下を気にするあまり、部屋を閉め切ってしまう事が多かった。
その為に部屋の空気が淀んで、汚れた環境に陥ってしまう。
ペルシアの彼方には優れた医学が存在するという。
イスラム医学は、アル・ラーズィ(865-925)によって、神学ではなく臨床医学となった。
アブルカシス(936-1013)は優れた外科医で、医学書を西暦1000年に完成させている。
血管の扱い方、戦傷の際の縛り方、手術道具200種類の図解等々であった。
そのほか薬学の初歩である「昇華と蒸留における成分の分離」についても述べている。
今は1399年だから、400年も前の話である。
松戸彩円は、その話を甲斐国に出入りしている商人から聞いていた。
その商人は、駿河に行った時に、堺の商人が聞いてきたそうだ。
堺の商人は、中国人の商人が聞いてきたそうだ。
中国人の商人は、中国南部の舟山諸島の双嶼の商人に聞いたそうだ。
双嶼の商人は、マラッカ王国のイスラム商人に聞いたそうだ。
その先はどこから聞いたのかはわからなかった。
「日本は東蛮じゃん」と彩円。
インドにはアーユルヴェーダ医学というものがあった。
「その中でもスシュルタ・サンヒターは有名な著作です」とその商人は言った。
抜歯から帝王切開、痔の焼灼まであらゆる分野にわたる外科の名書であった。
これはシリーズで「チャラカ・サンヒター」という著作もあるそうだ。
その他にも経年とともにさらに2冊が発行され、最後が究極の1冊と呼ばれる。
題名が無い無名の書であったが3~6世紀にまとめられた著書であった。
白内障の手術から内臓疾患まであらゆる症状の処置について書かれている。
松戸彩円「読んでみたいなあ」
商人「読んでみたいですか~」
「おわっ、あんた誰」
「通りすがりの商人で御座います」
「本当に通りすがり?狙ったんじゃ無くて?」
「ホッホッホッ、考えすぎで御座いましょう」
「ところでさっきのは本当?」
「堺に行商にいった際に、手に入るやもしれません」
「見てみたいですかぁ~」
松戸彩円「そりゃそうだろう、知識の宝庫だろうなあ……」
商人の目が妖しく光った。
彼は去って行った(何か思惑がありそうであった)。
日本にも医心方という医学書がある(984)。
全30巻に及ぶ大作で、仏教と共に中国から入ってきた医学書である。
余りにも貴重な為、宮中に厳重に管理され、読むことは出来なかった。
戦国時代の日本でも、甲冑の下染めに藍を用いると刀傷に効いた。
これは生薬のタデ藍の薬草効果で化膿を防いだからであった。
漢方のウコンは平安時代に中国から入ってきた。
大変な貴重品で、主な栽培地は琉球王国であった。琉球王府の専売である。
これも刀傷に処方された。
陣中での金創医(外科医)の医療は軍事機密であった為、後世に何も資料が残っていない。
かろうじて、後三年合戦絵巻(1347)には陣中で顔に刺さった矢を引き抜こうとしている図が残っている。
鏃には返しがあって、刺さると容易には抜けない。
無理に引き抜こうとすると矢先が外れるようになっており、簡単には治療できない。
これを取り出すにはアリゲーター鉗子のような把持道具が必要だが、戦国時代にそんなものはない。
だが南蛮では既に1500年代に弾丸を取り出す道具がやがて出現する(100年後)。
では今、品部、韓鍛冶部しかいない戦国時代で出来るだろうか?
松戸彩円の目が妖しく光る。




