2話 偶然
あの女子生徒と目が合ってから数日が過ぎる。なのに竜人は今でも彼女のことをはっきり覚えている。
廊下を歩く時はいつも目の前に現れることを願っている自分がいることに気づき、調子が狂う。この恋だって無駄になる。俺も彼女もいつ死ぬかわからないんだから、下手に望むべきではない。それなのに、授業中も彼女のことを考えてしまい集中できず、ボーっとしてしまう。
「相原、最近何かあったのか?」
先生に指摘されるほどの重症だ。自分が自分でないような気がした。適当にごまかしてその場をしのぐ。
好きな人がいると全てが変わる。考え方も行動理念も価値観すらも変わってしまう。恐ろしいものだ。
帰りのホームルームが終わって廊下を歩いていると、山積みにされたノートを抱えて通り過ぎるあの茶色がかった髪の美少女が目の前を通りかかる。
助けてあげたいという気持ちが芽生え、彼女に近づく。鼓動が早くなり、上手く話せるか不安になる。目は彼女以外の全てを除外し、俺は彼女と2人きりの世界に迷い込んだ。
「ノート持つの手伝いますか?」
彼女でなければこんなこと言わなかっただろう。彼女は少し驚いた顔をして俺の顔をまじまじと見つめる。突然話しかけた自分の非常識な行動を今頃自覚し、恥ずかしくなってくる。彼女は依然として俺を見つめる。俺は何を言われるのかドキドキしながら彼女の瞳と唇を交互に見つめる。
暫く硬直した2人。目線を重ねてから7秒経ってようやく声が出たのは彼女であった。
「大丈夫、一人で持てるから」
冷たい一言が胸に突き刺さる。今にも崩れ落ちそうなのは明らかだ。それにも関わらず拒否する。
「崩れそうだけど、本当に大丈夫?」
そう言いながらノートを抱える手を見ると左手に包帯が巻かれていることに気がついた。
控えめに数回巻かれた包帯は、細長く綺麗な指を半分くらい隠している。
「左手どうしたの?」
竜人は無意識に質問攻めしていることに気がついて焦りに拍車がかかる。
「こ、これは......ちょっと怪我しちゃって。でも、大したことないから大丈夫」
どうしても手伝わせてくれないらしい。ここで引く訳にはいかないと思った。
「さすがに怪我していて、崩れそうなノート抱えてる女子を見過ごしたら俺の名誉に関わる」
心にもない無理矢理な言い訳を添え、こっちも少し強引に手伝おうとノートを半分とった。
彼女は「あ、いいのに......」と申し訳なさそうな声を溢す。でも、言葉とは裏腹に嬉しそうな表情を浮かべている。
職員室まで運ぶために1学年の教室がある4階から職員室のある2階まで降りる。
「俺、1年6組の相原 竜人。えっと......」
相手の名前が知りたいが、何と聞けばいいかわからずに言葉に詰まってしまう。思えば、友達を避けるようになってからはクラスメイトとすらもまともに話さなくなっていた。それが傷となり、こんなコミュ障っぽい対応をしてしまった。少し反省しなければ。
靴の音が廊下を忙しなく乱反射する。彼女のペースに合わせて階段へ向かう足取りはどこかぎこちない。
「私は、1年5組の橘 純子。よろしく」
「あぁ、よろしく。隣のクラスなのか。気づかなかった......」
「私も気づかなかった。ごめんなさい。私、あんまり物事に興味を持てなくてね。おかしな話でしょ?」
橘のフォローのおかげで会話は繋がったが、自分の物事に対する関心の無さに肩を落とす。それと同時に竜人は思った。やはり彼女と俺は似ていると。
階段に差し掛かり、2人は足下を気にしながら一つずつ段差を降りていく。踊り場にある窓からは部活生が汗水垂らして果敢に動いているのが見え、それと同時に赤と黄色の絶妙な比率で作られた光が溢れている。
色鮮やかな光景に思わず息を飲む。今までのモノクロで無味無臭な人生がいかに無意味であるかを痛切した。そして、この光景に感動できるのは隣に橘がいるからだということも、なんとなく理解した。
「実は俺も、物事に興味持てなくて」
俺は苦笑いした。あれ、これって話を終わらせる返しじゃね? と自分で指摘しつつ、次は何を話そうかと考え辺りを見渡す。
すると、階段の踊り場に掲示されている新入生歓迎球技大会のお知らせという貼り紙に目が止まった。球技大会の詳細にある日付に目が止まった。
「ん? どうかした?」
急に歩く速度が落ちたことを気にして橘が振り返る。
「あ、いや、明日って球技大会なんだ、って思って」
「そうだよ。まぁ私は左手を怪我してるから見学だけど」
このまま帰っていたら明日1人だけ制服で恥をかくところだった。と胸をなでおろす。普段は、恥じらいなんて気にすることもなければ、忘れ物常習犯である。
「じゃあ、俺も見学しよっかな」
思わず心の声が出てきてしまい、橘に退かれてないか恐る恐る顔を覗いてみた。
見えたのはとても直視出来ない、そして、見ていたら天罰が下るのではないか? と思うほど繊細で美しい笑顔だった。
髪は窓から入る風になびいてシャンプーの匂いを撒き散らし、瞳は夕日の光を反射してより一層輝き、緩んだ口元は食べることができそうなほど柔らかく微笑む。
その笑顔に吸い込まれて、未知の世界――俺と橘の2人しか存在しないこの世界――に閉じ込められた感覚。誰も触ることができない、狂ってしまいそうなほど深い場所にある世界だ。