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苦手な方はご注意ください。

短編小説

鍵、しめた?

作者: うわの空

 鍵、しめた?


 家を出て数歩も歩けば、そんな疑念を抱いてしまう。私は立ち止まった。

 鍵、しめた?

 ――しめたはずだ、間違いなく。だって確認した。何度も何度も。大丈夫、絶対にしめている。これだけ気を使っているんだもの、しめ忘れてなんかいないはずだ。

 隣に住む学生が、深夜バイトから戻ってきた。少々値の張る1LDKに住みながらも、毎晩のようにバイトへ向かう学生。金銭的余裕がないのだろうか。

 廊下にいる私を見て、彼は訝しげな顔をした。


「はよっす」

「……おはよう」


 彼はジーンズのポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。がちゃん。解錠される音。

 途端、私は踵を返した。いてもたってもいられなくなったのだ。

 ――やっぱりしめ忘れたかもしれない。

 自室の前に立ち、乱暴にドアノブを回す。マンション特有の屈強そうな扉は、がちゃがちゃと硬質の音を立てた。しまっている、と安心する。大丈夫、さあ仕事に行こう。ドアノブから手を離し、扉から視線をはずした。そのまま歩こうとして、――立ちすくんだ。

 ……本当に、しまっていただろうか。

 私は首を振った。このままだと遅刻するし埒が明かない。しかし気になる。鍵は本当にしまっているのか。この鍵は本当に大丈夫なのか。

 昨夕、変な特集を見たせいだと嘆息した。夕飯の準備をしていた時、ニュース番組がふいにこんな話を持ち出したのだ。


『いまだに続く、空き巣被害。あなたの家は果たして大丈夫でしょうか』


 キャベツと豚肉の入ったフライパンがじゃあじゃあと音を立てていたにもかかわらず、その言葉ははっきりと聞こえてきた。フライ返しを適当に動かしながら、ちらりとテレビを観る。「日本でよく使われている鍵の種類」という赤字のテロップがあり、その上には数種類のシリンダーが並んでいた。

 ――まずは、それぞれの鍵をあけるのに、何分かかるか検証してみましょう。

 私は火をとめて、テレビの前へと急いだ。鍵のプロなる人が、ピッキングをしている。下手に真似をされないよう映像にはモザイクがかけられていたが、それでもプロが素早く作業している様子が伝わってきた。


『検証の結果。ピッキングされやすいのはディスクシリンダー型ということが分かりました。ところで皆さま、この鍵の形……見覚えないですか? そう、こちらの鍵、いまだに多くのご家庭で使用されている種類なのです!』


 顔から血の気が引いた。ズームにされている、くの字型の鍵穴はよく見る。

 だって、我が家の鍵は、問題の「ディスクシリンダー型」なのだから。


『空き巣にかかればこんな鍵、数分とかかりません。なんと、ヘアピンだけで解錠することすら可能なのです。「ワンドア・ワンロック(ひとつの扉にひとつの鍵)」の家ならば尚更、侵入は容易になります』


 うちのマンションはワンドア・ワンロックだ。背筋が凍った。


『それではここで、空き巣被害に遭われたAさんに話を伺いましょう。Aさんの被害総額はなんと八百万円! 帰宅した時は時すでに遅し、金品はすべてなくなっていたのです。Aさんが住んでいたのは高級マンションの最上階。安全に見える場所で、何故そのような被害に遭われたのでしょうか――』


 はっぴゃくまん、とひとりごちる。急速かつ急激に不安になり、私は預金通帳やアクセサリー類を引っ張り出した。記憶と同じ位置にそれらはあったし、ひとつたりとも減っていなかった。

 大体。もしも空き巣に入られたとしても、私の部屋にあるものなんて大した被害額にはならない。不安なら、大事なものを常に持ち歩いておけばいいだけ。そうすれば、盗まれて困るものもなくなるはずだ。

 そのはず、なのだけれど。


「――鍵、しめたっけ?」


 駅に向かっている最中、またもや不安に駆られた。犬の散歩をしているおじさんが、こちらを見ている。彼が片手に持っているビニール袋ががさりと鳴った。

 ――もしもあの中に、ピッキングツールが入っていたとしたら。

 自分の妄想にぞっとする。普通に考えれば、あの中に入っているのは犬の汚物か何かだ。犬の散歩中、ビニール袋を持ち歩いてる人はごまんといる。ピッキングツールなんて入っているはずがない。

 私は軽く会釈して、おじさんとすれ違った。柴犬が悪意のない目をこちらに向けている。私にすり寄ろうとする飼い犬をたしなめて、おじさんは歩いて行った。

 ――犬とおじさんが向かう先。そこにあるのは、私のマンションだ。

 おじさんの手にあるビニール袋が、ゆらゆらと揺れる。……落ち着け、あの中にピッキングツールが入っているなんて考えすぎだ。鍵はちゃんとしめたし、隣の部屋の学生は先ほど帰ってきたばかりだ。変な物音がすればすぐに気づいてくれるだろう。大丈夫。そんなはずない。大丈夫。


『あなたの家は果たして大丈夫でしょうか』


 次の瞬間。

 私は、マンションへと全力で走っていた。



「先輩。最近、遅刻が続いてますねえ」


 私のデスクにホットコーヒーをのせながら、後輩が言う。ありがとう、と素直に受け取り一口飲んだ。後輩は、あいていた隣のデスクから椅子を手繰り寄せて着座した。


「先輩にしては珍しいですよね。なんかあったんですか? あ、もしかして」

「彼氏じゃないから」


 そんなムキにならなくても、と後輩。彼女は話やすい分、こちらのことも友達として見ていそうな部分があった。


「先輩の家、1LDKだから男と一緒に生活できるなーと思って。それで、寝不足とか」

「あのねえ」

「まあまあ。なんかあったなら相談のりますよ。さ、どうぞ話してください」

「どうぞって……」


 そう言いながらも、私は後輩を一瞥いちべつした。私よりもよっつ下、二十三歳の彼女も確か一人暮らしだったはずだ。


「……あのさ」

「はい?」

「家の鍵、ちゃんとかかってるかどうか気になったりしない?」


 後輩はぽかんとした表情で、私を見た。


「え。もしかして先輩、アレですか? 鍵しめたっけーって不安になって、何度も確認しちゃうアレ」

「あれって?」

「なんか、あたしの友達でいたんですよね。鍵をしめたか気になって、外に出られなくなった子。あと、ペットボトルの蓋を何度もしめなおしたり。ペットボトルの蓋なんか、何度も開閉するからすり減っちゃって。そのうち蓋が馬鹿になって、からからーって空回りするようにまでなったんですから」

「……ペットボトルの蓋は気にならないんだけど」

「でも、家の鍵は気になるんですね?」


 後輩は神妙な面持ちでコーヒーをすすった。


「その友達、結局病院に行きだして。たしか、強迫神経症って言ってました。そういえばその子、手もしょっちゅう洗ってたなあ。指先がすっかり荒れちゃって」


 後輩が私の指先を確認する。けれど、私が気になっているのは家の鍵だけだ。しょっちゅう手を洗うといった症状はない。

 ともかく、と後輩は語気を強めた。


「気になるなら一度、病院に行ってみたらどうですか? もしかしたら、鍵について何かトラウマでもあるのかもしれませんし。先輩が覚えてないだけで」

「トラウマ……」

「ていうか先輩、最近げっそりしてるから心配ですもん。病院をすすめたくなる顔してますって」


 後半は軽い口調で言い、後輩は立ち上がった。昼休憩も終わりに近い。


「さてと。そんじゃ、あたしはトイレに行ってきます」

「あ、私も」


 つられたように立ち上がる私を見て、後輩は首を傾げた。


「なんで鞄を抱えてるんです? 化粧ポーチだけ持っていけばいいじゃないですか」

「ん、……気にしないで」


 私が曖昧に笑うと、後輩は気づいたのかそれ以上追求しようとはしなかった。私は鞄を、――その中に入っている鍵を抱きかかえる。

 これも、昨夕の特集のせいだった。


『外出先でトイレに行くとき、鞄はどうしていますか? 友達に「ちょっと見といて」などと言っていませんか? 席をはずすほんの数分。その間に、鍵を複製される恐れがあるのです――』



 退勤後、私は駆け足で駅へと向かいながらも悩んでいた。

 すぐにでも帰宅して、施錠を確認したい。けれども今からホームセンターへと向かい、新しい鍵を買いたいとも思っていた。一刻も早く鍵を取り換えて、安心したかったのだ。明日は休日、鍵の取り換えをする時間も作れる。

 ホームセンターに行こう、と決めて電車に乗り込む。ところが動き出す景色を見ていると、不安がぐるぐると渦を巻き始めた。


 ――鍵、しめた?


 しめているだろう。会社に遅刻するまで調べたのだから、確実にしめている。でも、もしもピッキングされたら? ううん、ピッキングなんてしてたら絶対に目立つ。施錠し忘れていた家に侵入するのと、わざわざ鍵をあけるのとでは訳が違うだろう。鍵さえしめていれば、多少なりとも安全なはずだ。大丈夫。鍵さえしめていれば、……。


 ――……鍵、しめたっけ?


 自宅の最寄り駅で下車し、歩幅を広くして歩いた。今朝すれ違った犬とおじさんに再度出会う。相変わらず、中身の見えないビニール袋をぶら下げているおじさん。まさか、まさか。

 私はマンションに到着するなり、自室へ向かって走った。ドアノブに手をかけ、力の限り引く。

 鍵は、しまっていた。



「……防犯性の高い鍵、ですか」


 ホームセンターの店員は、私の言葉を繰り返した。


「だとすればこれなんか、ピッキングされにくい鍵として最近よく売れてますね」


 彼はそう言って、棚の上段にひっかけられていた商品を取ってくれた。一見普通の鍵だけれど、ブレードにはぎざぎざとした歯がひとつもない。かわりに、小さな溝ばかりが見えた。


「ディンプルキーって種類です。ピッキングに強いのはもちろん、鍵のコピーも簡単に作れないようになってます」

「へえ……」

「お客様、もしかして昨日のニュースをご覧になったんですか? 今日は鍵がよく売れてるんですよね」


 あの番組のせいで不安になったのは、私だけではないらしい。そうなんですか、と私は苦笑した。

 三十代の店員は気さくな笑みを浮かべながら、鍵について色々と教えてくれた。鍵専門の店員なのだろうか。胸ポケットに刺さっているボールペンにも、鍵のイラストが描かれている。


「ところで」


 私は、気になっていたことを訊ねた。


「これって、私でも取り付けられますか」


 店員は首肯した。


「もちろん可能ですよ。現在ご使用の鍵を、ディンプルキーと取り換えるんですよね? 注意する点はありますが、そこさえしっかりしておけば、誰でも簡単にできると思います」

「そうですか、よかった」


 安心する私を見て、店員は微笑んだ。


「こういうのって、業者に頼んだら高いですもんね。自分でやったほうが絶対にお得ですよ」


 私は適当に相槌をうちながら、違う、と思っていた。

 値段の問題ではない。

 ――もしもその業者が、複製済みの鍵を取りつけたらどうするのだと、思っていたのだ。



 翌朝。私はせっせと、鍵を取り換えていた。

 昨日、ホームセンターからの帰り道は細心の注意を払った。ホームセンターで購入したあの鍵ですら、既に誰かに複製されている可能性がある。その「誰か」に住所を特定されないよう、私は必死だった。何度も後方を確認し、わざと大回りまでした。帰宅後、周囲に不審者がいないかどうかまでチェックしたのだ。結果、それらしき人物は見当たらなかった。

 鍵の取り換えは想像以上にスムーズだった。ただし、それは最初だけだ。シリンダーを固定しているネジが妙にかたく、なかなか回らない。ドライバーが何度か空回りした。このままだと、ネジは回る前に潰れてしまうだろう。


「……あのー」


 通りかかった隣人が、私に声をかけてきた。


「よかったら手伝いましょうか。俺、そういうの得意なんすよ」

「えっ……」


 手伝ってほしいところだった。けれど。

 私は、玄関に目をやった。靴箱の上の大きな花瓶と、百均で買った貧相な造花。

 視線を下げる。

 はずれかけの、鍵。


「……いえ、大丈夫です。ありがとう」


 そうっすか、と男は退散した。私は愛想笑いを浮かべたまま、ネジを回し続ける。ドライバーとネジが、ガチガチと鳴っては空回った。

 ――よかったら手伝いましょうか。

 そう言ってくれる隣人すら、ここには近寄らせたくなかった。



 結局、作業が終了したのは夕方だった。疲れ果てて部屋へと戻り、冷蔵庫に何も残っていないことを思い出す。真新しいディンプルキーを握りしめて、外に出た。

 施錠する。確認する。しまっている。問題なく。

 私は息を吐いて、マンションから一番近いスーパーへと歩き出した。けれどもふと、こんなことを思った。


 ――私のような素人が取り換えて、本当に安全なのだろうか。


 さっき動作確認したばかりじゃないかと自分に言い聞かせる。鍵は扉にはまったし、施錠も解錠も問題なくできた。自力で鍵を取り換えている人は多いのだと、ホームセンターの店員だって言っていた。考えすぎだ。


 ――鍵、本当にしまってた?


 立ち止まる。振り返る。遠くに見えるマンション。

 馬鹿馬鹿しい、考えるな。そんなこと考えるな。

 考えちゃ、だめ。


 ――鍵、しめた?


 私は、マンションへと引き返した。



 家にあったポテトチップス一袋のみで、土日をしのいだ。今日こそはスーパーに寄ろうと、げっそりとしながらも出勤準備をする。扉を開けると、ゴミ袋を持った隣人がちょうどそこにいた。


「はよっす」

「……おはよう」

「今日、ゴミ出しの日っすよ」


 隣人は大きなゴミ袋をぷらぷらとさせた。うちのマンションは、ゴミ出し日が指定されているのだ。


「そうね」


 私は足元に置いていた二十リットルのゴミ袋を持ち上げた。それを見た隣人が、奇妙な顔をする。

 私がゴミを出すとは思っていなかった、そういった表情だ。


「あの、なんか……最近おたくから」


 言いかけて、彼は口ごもった。


「いや、なんでもないっす。すんません」

「……なんですか?」

「ホント、なんもないっす。そんじゃ」


 隣人はなかば逃げるように、私に背を向けた。ゴミ捨て場に向かいながらも、時折私を見ている。

 私は彼を見届けてから、扉を施錠した。二度、三度、四度。納得できるまで鍵がかかっていることを確認し、一歩踏み出した。しかし、すぐに立ち止まった。施錠したばかりの扉を見る。

 の奥から、人間の声が聞こえた気がした。


「……うそでしょ」


 ――鍵、しめたっけ?

 まさか。そんなはずない。だって何度も点検した。確実に施錠している。私の部屋から人の声が聞こえるなんてあり得ない。そんなはずない。そんなはず、ない。

 ――鍵、しめたっけ?


『いまだに続く、空き巣被害。あなたの家は果たして大丈夫でしょうか』


 私は、会社を休んだ。



『――先輩、病院行きました?』


 昼過ぎ、後輩が電話してきた。


『本当にやばいですって。いくら風邪って言っても、先輩は最近遅刻も続いてたし。ハタダさんとか、めちゃ怒ってますよ。行けるなら病院に行った方がいいですって』

「うん……」

『鍵のことが心配なんですか?』


 私は、部屋の奥を見た。


「……うん。鍵がしまってるか不安になるの。怖くて外に出られない」


 後輩は数秒沈黙してから、じゃあ、と声を出した。


『私、今日の仕事が終わったらお見舞いついでに先輩の家に行きますよ。で、一緒に病院行ってみません? 先輩が鍵をかけたかどうか、私が隣で確認しときますから。そしたら外に出られるでしょ?』

「え!?」


 思わず大声を出してから、私は声を潜めた。


「うちにくるの? いいよ、そんな気を使わなくても」

『先輩こそ気を使わないでくださいよ。困ってる時はお互い様じゃないですか』


 後輩が柔らかい声を出す。しかし、彼女は間違えている。

 私からすれば、彼女が家に来ることの方が遥かに「困る」のだ。


「いいよ、いいって。ほんとに大丈夫だから」

『会社まで休んだのに大丈夫なんて言わせませんよ。気にしないでください、先輩の家って割とうちから近いですし。それに一度行ったことあるから場所も覚えて――』

「来るなっ!」


 私は叫んだ。


「絶対に来るな! 来るなよ! もしも来てみろ、その時はころ……」


 言いかけて、絶句する。

 私は今、何を言おうとしたんだろう。

 一方的に通話終了を選び、スマホを床にたたきつける。画面に放射状のヒビが入った。


「……どうしよう」


 頭を抱えてしゃがみこんだ。あそこまで乱暴な物言いをしたのは、生まれて初めてかもしれない。後輩はどう思っただろう。

 もしも本当に、家に来たらどうしよう。

 ――鍵、しめたっけ?

 私は玄関に行き、サムターンの状態を確認した。確実に施錠されている。数回言い聞かせてから、奥の部屋へと向かった。1LDKの「1」にあたる部屋。ベッドがあって鏡台があって、なのに最近はほとんど使用していない部屋。

 扉を開けると、悪臭が鼻をついた。嗅いだことのない臭気が立ち込めている。空気に色がついているようにすら思えた。

 私は鼻と口をおさえながらも、部屋の中央へと進んだ。近頃とんと利用していないそこには、においの原因がずしりと横たわっている。


 名前も知らない、男の死体が。



 ――鍵、しめたっけ。

 一か月ほど前、通勤途中の私はふとそう思った。鍵は鞄の中にあって、けれどもしめた覚えがない。腕時計を見る。いつもより若干早く家を出ていたため、時間に余裕があった。

 ――鍵、しめた?

 遅刻はしないだろうと踏んで、家へと引き返す。道すがら、数人の小学生とすれ違った。夏休み明けのせいか、学生たちはだらだらと通学していた。ふてくされたような顔で。

 私は早歩きでマンションまで戻り、額に浮かんだ汗をぬぐいながら自室のドアノブに手をかけた。

 開けた――開いた。


「あれ……?」


 しめたかどうかを覚えていないくせに、実際に施錠されていないと不安になった。やっぱりしめ忘れたんだ、という思いと、本当にしめ忘れたっけ? という疑惑。私は扉の隙間から、そっと中を覗いた。そうして小さな悲鳴をあげた。

 荒らされたリビングが、はっきりと見えたのだ。

 やられた、空き巣だ、何を盗まれたのだろう……。混乱した頭がいっぺんに言葉を流し、私は土足のまま大慌てでリビングに直行した。

 どうしてあの時、「そのこと」を念頭におかなかったのだろう。


 犯人がまだ家にいる可能性を、どうして予測できなかったのだろう。


「――あ」


 私か、見知らぬ男性か。どちらかが間抜けな声を出した。けれどもその直後、男は私に向かって突進してきた。玄関から逃げるためか、あるいは。

 ――殺される。

 私は一目散に逃げだした。男は追ってくる。

 背後にいる男が、凶器を持っている気がしてならなかった。ナイフかもしれないし、包丁かもしれない。スタンガン、金属バット、斧、鉈、拳銃。

 ――殺される、殺される!


 私は、玄関にあった花瓶を、手ぶらの男めがけて振った。



 腐乱した男の死体を、私はあらゆる角度から眺めた。あの時殴り続けた頭部は、明らかに変形している。どこから侵入したのか、蠅が部屋中を飛び回り、男の身体にはウジがわいていた。

 ゴミ捨て場よりも酷い匂いが部屋に充満していて、窓を開けたい衝動に駆られる。しかし、開けるわけにはいかない。こんな腐臭を近所にまき散らせば、「これ」はあっという間に露見するだろう。

 最初のうちは、この男が今にも起き上がるのではないかと恐怖していた。けれど今では、この男が動かないことは流石に理解していた。

 男は二度と動かない。声も出さない。

 男はもう、死んでいるのだ。


 ――ならば「これ」の存在さえ隠してしまえば、何事もなかったことになる。


 私は考えた。死体を下手に埋めたりするから、誰かに発見されてしまうのだ。注意深く部屋に隠しておけば、きっと誰も気づかない。だって、外と違って室内にはプライバシーがある。来訪者さえいなければ――この部屋を誰にも見せなければ、死体を見られる機会もない。私が人殺しだと気づかれることもない。きっとそうだ、そうに違いない。


 家にきちんと鍵をかけて、空き巣にも入られないようにしておけば、大丈夫だ。


 この部屋に鍵の業者は呼べない。「異変」に気付かれたら困る。

 隣人とは仲良くできない。「匂い」の原因がうちだとバレたら困る。

 後輩は、この家に呼べない。

 ――私はドライバーで死体の目を突き、鍵に見立ててぐるりと回した。


 後輩は、この家に呼べない。

 我が家には、盗まれて困るものはない。けれど、見られたらまずいものならある。


 後輩は、この家に呼べない。

 だって、万が一にも「これ」を発見されたら。


 私は、また一人殺すことになるもの。



 ――何日も欠勤していたら怪しまれる。仕事はちゃんと行かないと。

 私は重い身体を引きずるようにして、駅へと歩いていた。いつか見た小学生のように、だらだらと。

 いつもと同じ場所で、犬の散歩をしているおじさんとすれ違った。犬がやたらと鼻をすんすんとさせながら、私の匂いを嗅ぎにくる。おじさんが、「こら」とリードを引っ張った。けれど、犬はぎゃんぎゃんと吠え始める。私に向かって。あるいは、私が纏う異臭に向かって。


 ――鍵、しめた?


 いつもの思考を追い払うように、私は首を振る。しめた。ディンプルキーはピッキングされにくいと、ネットにも書かれてあった。大丈夫、空き巣に入られることはない。

 空き巣に入られることはない。二度と、ない。

 気を取り直して歩いていると、前方からパトカーが走ってきた。唸るサイレン。狭い道なのにスピードを出している。かなり急いでいるようだ。

 赤い光が、私の隣を通り過ぎる。緊迫した様子の警官たち。ひずむサイレン。


 ――鍵、しめたっけ?


 しめた。絶対にしめた。今日だって、十回は確認したのだ。鍵はしまっていた。確実に、しまっていた。

 ……けれど待って。資料を家に置き忘れていることに気づいて、一度だけ解錠した。あのあと、鍵をきちんとしめただろうか。

 しめたはずだ。しめたと思う。男の死体。解錠したら施錠するだろう。これだけ気をつけているのにしめ忘れるわけがない。陥没した頭蓋骨。解錠してそのまま放置するなんてあり得ない。鍵はしめたに決まってる。剥がれ落ちる腐肉。鍵はしめた絶対にしめた。人殺し。鍵はしめている。人殺し。施錠した。ヒトゴロシ。せじょうした。ヒトゴロシ。きっと、たぶん、おそらく、そのはず。



 ――鍵、しめた?








 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた? 鍵しめた?




「――鍵、しめた?」


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― 新着の感想 ―
[一言] 狂気にぞくぞく! 後半のネタバレで「あぁ!なるほど。。」となりつつ、鍵しめたリピートの狂い具合で晩の冷え込みが増しました。 お布団にくるまって温もらないと凍えちゃう でも既に3度読みして…
[一言] どんどん追い込まれていく、切迫感。この感じを大変心地よく感じてしまうわたしは、うわの空さん作品中毒かもしれません。最後のブラックなオチに「ああ〜! それかあ」と唸ってしまいました。
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