1-7 かくして少年の舞台が始まり、小さな怪物は産声をあげる
葬式はつつがなく執り行われた。
清々しいほど晴れ渡った空の下、国や自治体から人がやって来て万事速やかに進めていった。
総一ら生き残った一族の子供達は何もできずにそれを見ていただけだった。
「……どうして」
広い部屋の中、たくさんの花に囲まれた段上にはいくつもの写真が並べられていた。
黒い縁取りのされた写真の中には生前の父、母、兄、そして分家を含めた親戚全員の顔が納まっていた。
総一は何も考えられず、ただただ呆けていた。
最も宗家に近い分家筋である従妹の伏見貴美恵は最初わんわん泣いていたが、今ではしゃくりあげながら真っ赤な目を閉じて俯いていた。時折「お父さん……お母さん……」とか弱く呟いている。
分家筋であり、総一の遠い親戚に当る三善清春は狂ったように言葉にならない叫びをあげ、泣きながら手当たり次第に物を手にとってはでたらめに投げて一つの部屋を滅茶苦茶にした。
同じく分家筋の滋岳川行と滋岳明人の双子の兄弟は並んで座りながら互いに手を握り合い、震える体を必死に抑えようとしていた。
最後の分家筋の弓削美雪は彼らの中でも一番幼く、よく分かっていないのか静かに大人しく畳みの上に座っていた。
そんな一族の生き残りを前に喪服姿の大人たちが次々と声をかけていき、去って行く。
その全ての慰めの言葉も、励ましの言葉も全てが総一にとって空虚に響く。何一つその総一の死んだ心に届かない。
葬式には大勢の弔問客が訪れていた。その数はまさに賀茂家の権勢を表しており、屋敷にはしばらく人の列が並び続けていた。またその顔ぶれも魔術組織のトップや高級官僚、財界の要人など錚々たるものだった。
「かわいそうにねぇ……あんな小さな子供だけ残って」
「ひどい事故だったそうよ。なんでもガスの大爆発とか」
屋敷のどこそこで囁き声が交わされている。憐憫や同情、或いは好奇といった視線が総一らに一片の容赦もなく降り注がれ、子供達はその視線に晒されるだけで己の境遇を刃のように突きつけられ、恐ろしくて仕方なく、ただじっと耐えるしかなかった。
賀茂一族の死はガスによって引き起こされた大事故のせいとされたが、無論それは表向きの理由だ。そして異能の世界を知らない一般人が知りうるのはそこが限界だった。
「これで長い歴史を持つ賀茂家も終わりか……」
「賀茂家が無くなって、空いた席にはどこが座るのやら」
「順当に考えて、先日多大な功績を上げた蘆屋家か最大勢力の安倍家だろう。それだけじゃなく、新興の陰陽師にとってはこれはまたとないチャンスだからもうあちこちで動き始めてるだろうな」
「これから陰陽師界は忙しくなりそうだな」
気の早い者は既に賀茂家という一大派閥がなくなった事による新たな政争に興味津々で、葬儀の場であっても腹の探り合いや各所の動向の調査に余念がなかった。
葬儀には京都の陰陽師家である日下部家代表、つまり総一の婚約者である利紗の父親が一人駆けつけていた。彼もまた総一に対して親身になって声をかけていた。
「総一君、葬儀が終わったら日下部の家に来ないかい。私は君を迎える用意がある。何も心配しなくていいんだよ」
彼の言葉は温かかった。
だが。
「大丈夫。他の子供達も悪いようにはしないよ。必ず他にいい家を選んで、決して不自由な暮らしはさせないようにするから」
日下部家で受け入れるのは賀茂総一ただ一人だけ。つまりそういう事だった。
総一は霞がかかったような頭でぼんやりと、このままだと自分らは皆バラバラになるという事だけはかろうじて分かった。
現在の総一ら屋敷の子供達の面倒は有志による女中らが見ていた。特に年配の女中の中にはそれだけ、仕事以外でも情や愛着がある者が多く、損得抜きの善意で動いてくれた。
これから職を失うであろう彼女達も不安の中にいたが、今だけはそれを押し殺して子供達のケアに心から努めてくれた。
日下部家の他にも日本の陰陽師を束ね、正式なライセンスを発行している陰陽寮のトップたる陰陽頭の老人や四大陰陽師家である安倍家、蘆屋家、土御門家の宗主も参列していた。
特に蘆屋家の者は総一らの前で頭を深々と下げ、土下座までしていた。
「この度は我らが力及ばず……お悔やみ申し上げます」
『凄神』や『勇敢』、『立派』などといった単語が並び、先日の事件で如何に賀茂家の皆が偉大であったか、どれほどの役割を果たしてくれたかを蘆屋家の男性は述べるが、総一にはまったく届かない。
総一の生気のない虚ろな瞳は、ずっと安置された棺を見ていた。
☆☆☆★★★
深夜になり、子供達は屋敷の一室に集められてそこで眠っていた。
皆が皆、あまりの急な現実を受け止められているわけでなく、怯えるように、或いは悲嘆に暮れて、また泣きじゃくって、言葉少ないまま次第に眠りについていった。
そんな中、総一はやはり抜け殻のようにぼんやりと布団の中にいた。
目が冴えてまったく眠れなかったのだ。
「……」
静かに体を起こし、布団から抜け出す。
周りで眠っている年下の従弟妹らを起こさぬよう、静かに畳の部屋を出ようとして足を止めた。
「……見つからないようにしよう」
襖を隔てた続きの部屋には一人の年配の女性が寝ずの番をしていた。子供達の世話役、およびお目付け役の女中だ。このまま出れば気付かれるだろう。
今は一人になりたい総一は部屋に自らの分身を式紙で作り出した上で隠形の術を使って姿を隠し、そっと部屋を抜け出す。
「おばさん、ごめんなさい」
本来なら女性は今の総一のように、子供達がショックから取り返しのつかない怪しい行動をしないか危惧をして監視をしていたのだが、普段慣れない寝ずの番の上に静かな環境も相まって半分夢うつつの状態となっていた。それでも微かな物音に気付き、一度頭を振ってそっと襖を少し開いて子供達の様子を窺う。暗闇の中、子供達が全員布団の中にいるのを見て、女性は安心してまた部屋の奥に戻った。
一方、身代わりを置いて抜け出した総一は、しかしこれといった目的もなくふらふらと屋敷を歩いていた。
ふと夜空を見上げると、雲ひとつない空にたくさんの星が瞬き、満ちる前の月が煌々と地上を照らしている。
――静かだった。
草木も眠り、風と庭を流れる池の水音だけが耳をそっと打つのみ。
すっかり人気がなくなり、息をひそめる重苦しさが屋敷を覆っている。
生まれてからずっとここで暮らしてきた総一が初めて知る静けさだった。
深夜の静まり返った屋敷はどこか別の世界のようだった。
「……誰も、いない、な」
総一は屋敷を歩く。
書斎、応接室、客間、厨房、床の間、離れの間、女中の部屋、庭園の一角にある道場、長男次男の部屋、父と母の部屋。あちこちを歩き回る。
もう春も終わるというのに屋敷中の空気は冷えきっていた。
総一は素足のままその冷え切った暗闇の中を、ヒタヒタと進んでいく。
その最中、思い出すのはかつての光景。
屋敷のあちこちが明るく賑わっていた日々。
女中さんが掃除や洗濯で行き来していて。
まだ学校に通っていない子供の声がして。
警備員さん達が屋敷の周りに立っていて。
運転手さんが車を洗っていて。
庭師さんが鋏で植え込みを整えていて。
一族の人達や外部生が外で訓練をして。
講義用の広間では色んな人が術を勉強して。
長男の憲一が白の羽織を颯爽と翻して部下を率いて歩いて。
次男の征二がその憲一の一歩後ろを明るく付き従っていて。
大好きな、とても大好きな優しく穏やかな母がいて。
誰よりも強く、憧れた父がいて。
そう。
いつもどこからか声がしていた。
すぐ近くに人の気配があった。
皆が、いた。
「……どうして」
だが今はもう誰もいない。
どこにもいない。
何も聞こえない。
ただただ――静か。
「どうして……誰もいないの」
そこはまるで知らない屋敷のようだった。
「……どう……して」
いつからか涙が溢れ、頬を伝い零れ落ちていても総一はそれすら気付かずに歩く。
そうして辿り着いたのはある部屋の前だった。
総一はその部屋に入り、目線をあげる。やや上の壁にはたくさんの写真が飾られてあった。
それは花見の写真。
一族が毎年行った花見での写真で、その中では皆が揃って写っていた。
楽しそうに笑い、写真の中から暗がりの中の総一を見ていた。
「皆……」
ついこの前まですぐ側にいた皆が、小さな額縁の中にいた。
手が届きそうで、届かないその中に。
「……うっ」
ペタンと膝から力が抜け、畳みの上に崩れ落ちる。
暗い部屋の中で総一は一人、思い出す。
「父様、母様、兄様……みんな……」
震える声。
「なんで、いなくなっちゃったの」
か弱く、か細い声。
「ねえ、なんで……」
幼く小さい子供の声。
「なんで……なの……」
しばらく夜闇の部屋に押し殺そうとして、けれどできずにすすり泣く声がする。
写真の皆に囲まれた中で子供の慟哭が続いた。
「……」
そうして声の止んだ虚ろな部屋で、総一は座り込んだままぼんやりと写真を見上げ続ける。
まだ時折鼻をすする音がしていた。
「これから、どうなるのかな」
総一はぼんやりと考える。
まず思ったのは、賀茂家がなくなってしまうという事。
今まで過ごしてきたこの場所がなくなってしまう事だった。
「……いやだ」
それは総一にとって何よりも耐え難い事だった。
「いやだ、ぜったいにいやだ」
そう。
総一はこれまでずっと厳しい訓練にも勉強にも耐えてきた。
皆が遊んでいる間も、それを自身は見送ってひたすら自らを磨き上げる事に
もちろん辛かった。苦しかった。体をいじめぬき、殴られ、手や足に血マメができても魔法で癒されて訓練は続けられた。
必死に次々と与えられるハードルをクリアしていってきた。
けれど総一はそれを当然だと思い、そして誇りにすら思っていた。
それも全ては大好きな賀茂家のため。
いつかは自分も皆と一緒にこの家を守っていくんだと。そう思っていたからこそ頑張れた。
自分はこの家の直系、上に立つ者なのだからそれにふさわしいように努力するのは当然だと。
”総一様は将来宗主、或いはその右腕となって皆を導いていく立場のお方なのですから”
そう言われ続けながら総一は育ち、ろくに自分の時間を持つ事無く過ごしてきた。
それなのに今、これまでの日々を支えてきたものが失われようとしている。
――いや。
そこで、総一は気付いた。
「……まだだ」
まだ自分の後ろには年下の従弟妹たちがいるのだと。
まだ、遺された者があるのだと。
自分がやらなくてはならない事があるのだと。
「まだ、みんながいる。生きて、ここにいる」
震え、泣いていた年下の分家の子供達の姿を思い出す。
「僕が……守らなくちゃ」
まるで熱に浮かされたように、総一は呟く。
それは小さな、とても小さな呟きだった。だが、総一にとってはとても重い呟きだった。
「僕が、守らなくちゃ」
次第に言葉には力強さが帯びていく。
「宗主になろう」
虚ろな目はやがて焦点を結び、鷹のように鋭く引き絞られる。
声変わり前の幼い声には鋼の如き硬さと重みが生まれる。
「そして僕が賀茂家を継ぐんだ。皆を、賀茂家を絶対に守るんだ」
今までその黒い瞳の中にあった無邪気な光は薄れ、やがて氷の如き刃の光に塗りつぶされていく。
「僕しかいないんだ。僕がたった一人の宗家なんだ。僕が、一番年上なんだ」
そして、総一の中でナニカが生まれ、築き上げられる。
「僕が、皆を守らないと」
淡々と紡ぎ続けられる言葉に返事をする者などいない。
今、総一の周りにあるのは写真の中の故人のみ。
死人と過去の幻影に囲まれながら、総一は強く拳を握り締めた。
強く、強く、力を篭める。
”そも、宗主とは一族皆を守る者”
次期宗主候補であった総一は常々そう教え込まれてきた。
また、脳裏に蘇るのは次男である兄、征二のいつかの言葉。
”もしお前が賀茂家の宗主になるのであれば”
明るく軽薄な彼が、いつになく落ち着いた真剣な声で総一に語りかけた時の声が再び総一の中に木霊する。
”一族の長として皆に認められるよう、皆の前に立ち続けられるだけの男になれ”
「――ああ、そうだ」
”悪いやつらから皆を庇い、守れるようになれ”
それは征二が総一に贈った一部。
全ては憶え切れなかったけれど、確かにその言葉は総一の記憶の片隅に埋もれていた。
「思い出した……」
”一族の象徴たれるほどでっかい男になれ”
「うん。兄様」
それはいっそ穏やかで晴やかな声だった。
致命的なまでに澄んだ目を閉じて、守るべきものを心に刻み込む。
「僕はやるよ。だって――」
何度も、何度も刻み込む。
決して間違わないように。
決して揺れないように。
決して消えないように。
心の中で刃を素手で握り締め、血に濡れた手で力いっぱい刻み込む。
「宗主は、皆の前に立って先を行く者なんだから」
総一は立ち上がる。真っ直ぐ、雄雄しく、そして全ての弱い心の震えを押し殺して。
胸を張り、前を見据える総一は清々しい顔で再び目を開いた。
「賀茂家はまだ終わってなんかいない」
それは声変わりもまだだというのに低い声だった。
「母様、兄様、父様。見ててください。僕は立派な宗主になります」
総一は皆の前で誓う。
「そしていつか必ず、また皆との日々を取り戻してみせます」
総一は部屋に背を向け、一人出て行った。
既に総一の涙は枯れ果てていた。
こうして、無人の部屋にて賀茂家の宗主継承は執り行われた。
誰も見ておらず、誰も聞いていない深夜の屋敷の一角にて、賀茂総一という小さな怪物は誕生した。
”――ゴメンナサイ”