1-2 婚約者
賀茂家は名家である。
表向きは大手の貿易会社を経営しながらセキュリティガードも営んでいる。
また一族からは官僚も輩出し、その影響力は絶大とまではいかないが、決して小さくもない。
総資産では富豪の一角に名を連ね、経済界にもそれなりに顔が効く。
宗主の住む宗家の屋敷は広大な敷地を有し、百人規模での客の歓待をも可能とする。
作りは純和風。歴史ある屋敷には鯉と亀のいる池や季節の花々、木々などで四季を楽しめる庭があった。
掃除や炊事、洗濯といった住み込みで家事を行う女中も雇っており、大きな屋敷ではまるで公家さながらに色んな人が行き来していた。
一族には様々な人がいる。強い弱いの差はあれどほぼ例外なく皆が一度は陰陽師としての技術を備え、そのしきたりを覚えさせられる。それから魔法を捨てるも陰陽師の世界で生きるも自由だ。
一族直系でも宗家と縁を切って一人離れた地で静かに暮らしている世捨て人の老人がいるくらいだった。
現在賀茂家の子供は宗家と分家合わせても数人しかいない。
一番上が宗家三男の総一の五歳であり、総一から上は皆18歳以上だった。ちょうど世代間の空白ができていた。
賀茂総一の一つ下で分家に伏見貴美恵という女の子がいるが、この子の一家は宗家と仲が良く、たびたび家族で屋敷にやって来ては総一と一緒にいる。
とはいえ、総一はひたすら文字や算数、語学、歴史といった勉強と外での陰陽師としての鍛錬の毎日なので、一緒にいられるのはわずかな休憩時間か勉強の間しかないわけだが。
5歳ながらも英語の絵本に馴染まされ、最近では意味こそ分かってはいないものの少しずつ賀茂家の歴史を諳んじられるようになっているため末恐ろしい子供とも言える。
他の3,4歳の子供らは庭を駆け回ってボールで遊んだり、数々の戦術書や魔法などの蔵書が詰め込まれた倉庫でかくれんぼをして遊んでいるが、総一は屋敷を移動する合間にそれをそっと眺めてはすぐに顔を前に向きなおして歩き出すだけ。
「僕があの子たちを守っていくんだ。それが僕の役割なんだ」
守る、という言葉の意味は総一には未だよく分かっていない。だが何度も何度も繰り返し次期宗主としてのそういった心構えを教え込まれ、総一の心の深層にはそういった断片的な言葉がいくつも刻み込まれていっていた。
総一が進む廊下では女中や分家の人間が脇に避けて頭を下げる。その中を幼い総一は何ら疑問も抱かずに堂々と真ん中を進んでいった。
「お兄ちゃんだー!」
庭に面した廊下を進んでいると、そんな明るい元気な声が総一を急襲した。
総一が横に目をやると、シャツとズボンを着た女の子がいた。この子が一番総一と仲の良い親戚の子供で、伏見貴美恵だった。長く伸ばしている黒髪を二つ頭の横で縛ってツインテールにしている可愛らしい子だった。
女の子は庭から縁側に駆け寄ってきて総一の手を握る。
「ねえねえ、遊ぼう! あのねあのね、あたし魔法であっちのお花を咲かせたんだよ! 見て見て!」
「ダメなんだ。父様のとこに行かなきゃ」
「ええー」
くるくると喜怒哀楽が変わる幼い女の子に、総一は困ったように宥める。だが女の子はすっぽんの如く総一の手を掴まえて離さない。頬を風船のように膨らませ「遊ぼー遊ぼー」と泣き出さんばかりだった。
そうこうしている内にやって来た女中さんが女の子の興味を上手く別の物で引き、庭へと連れていってくれた。
そうやってまた一人で総一は屋敷の奥の間に着く。
「参りました、父様」
「おう、来たか。座れ座れ」
「はい」
水干に葛袴という和装姿の総一は父に怒られないよう精一杯作法を思い出しながら移動し、畳の上に正座する。
背筋を伸ばし、胸を張ってしっかりと前を向くその姿は幼いながらも宗主の風格を纏いつつあった。
「ほう、確かここに来る前は戦闘訓練やってたはずだっけか。痛みに慣れるために棒で叩いて、地面に転がし、踏みつけられたんだろ。どうだ、泣かなかったか」
「はい。泣いてません」
「ふむふむ。なら良し。いい子だ。偉いぞ、総一」
「……はい」
父に褒められてわずかに総一の顔が華やぐ。
ほんの数十分前まで総一の体は、痕が残らないよう慎重に痛めに痛めつけられていたのだが、お抱えの治癒術士のおかげで見かけ上の傷跡はすっかり癒えている。
戦闘訓練の初歩の段階だった。とにかく体に痛みを覚えさせ、実戦で痛みに恐怖し怯む事なく敵と戦わせるための訓練だ。
賀茂家の陰陽師は皆、この洗礼を受けている。とはいえ、トラウマになりかねないため総一のように幼い頃からというのは滅多にないが。
「そんじゃ本題だ。今日、お前の誕生日だろ。この後別荘でパーティするから、風呂入って着替えて来い。美味いもんたくさん食べていいぞ」
「本当!」
「ああ。好きなものを好きなだけ食え。楽しみにしてろ」
「はいっ」
うきうきと弾んだ声の息子に、父の神一もまた嬉しそうに笑った。
そして夜、賀茂家次期当主最有力候補である総一の六歳を祝う誕生日パーティが別荘にて開かれた。一族と仕事関係者と知人を招いての大きなパーティだった。
立食パーティのバイキング形式をとっており、今回は洋食がメインだ。
父が主役である息子の手を引いて段上で挨拶をしてパーティが始まる。
最初はパーティに招かれた客が一言祝いの言葉を述べようと二人に近づいてくる。
それらを捌き、人の輪が少し途切れ途切れになってくると総一はうずうずとし始め、その目は回りの料理の皿をチラチラと何度も視線をやるようになっていった。
そんな息子が可笑しくて、ついつい父は「おあずけ」と言いたくなる衝動をこらえながらも妻を呼んで言った。
少々小柄な、まるで少女にも見える藤色のドレス姿の女性だった。
「総一の好きなものを食べさせてやってくれ」
「はい、かしこまりました。こちらにいらっしゃい、総一さん」
総一の代わりに長男と次男を呼び寄せ、二人を招待客に引き合わせる。
「ご無沙汰をしております。賀茂さん」
「紅凪君か、久しぶりだな。よく顔を出してくれた。ん、そちらの子は……」
「……お初にお目にかかります。望月陽一です」
「ははぁ、なるほど君があの……去年の風薙の地の事件は聞いて驚いたよ」
招待客を歓待するというホストとしての仕事をこなしながら、神一は妻に手を引かれていく息子の背を見送った。
「母様、あれが食べたいです」
「はい。ちょっと待っててね」
あれも食べたい、これも食べたいとばかりに次々と料理の盛られた大皿の前で目を輝かせ、釘付けになる総一。
そんな息子を慌てないよう優しく嗜めながら、母親が料理を取り皿に乗せていく。
それを見守る総一は今にもヨダレを垂らさんばかりだった。
「じゃあこちらで食べましょう。飲み物を取ってきますね」
「ええ、もっと……」
「料理はなくなりません。これを全て食べ終えたらまた取りにきますから……ね」
「はい……」
ちょっとばかり消沈しながらも、子供用のフォークとスプーンを手にしてさっそく湯気を立てるいくつかの料理に挑みかかる。
その息子の様子を母は傍でそっと見守っていた。
そうしてお腹一杯になるまで食べて、けれどまだ食べていない料理がテーブルにたくさん乗せられている事にちょっとばかり恨みがましい目を向けていた時だった。
「こんにちは。本日はお招きいただきありがとうございます。さて、君が賀茂総一くんかな」
「え?」
総一の側に親子がやって来た。
「あら、日下部さん。先日はどうもありがとうございました。それで……そちらの子が」
「ええ、ほらご挨拶なさい」
そっと男性が自分の足に掴まっていた可愛らしいピンクのワンピースを着た女の子の背を押した。
「は、はじめまして……利紗です」
「総一です」
誰だろうと総一が思いながらじっと女の子を見つめていると、その視線を恥ずかしがったのか、父親の後ろに隠れてしまった。
「ははは。申し訳ない。どうにも人見知りをする子でして……」
「総一さん、あなたと将来結婚する女の子よ。これから大事にしてくださいね」
「結婚?」
「そう。婚約者っていうの。京都の陰陽師の日下部家の方よ」
日下部家は陰陽師としては二流だが、最近は企業経営の方で頭角を現してきていた。
要するに政略結婚だった。
母の言葉がよく分からず、首を傾げながら総一は再び女の子に視線を戻すと、ちょうど父の影からそっと顔を出してきた女の子と目が合った。
「うんと……よろしくね?」
「……」
父の見よう見まねでいつものように手を出して握手を求める。が、女の子は父の影から出てくることは無かった。
顔を真っ赤にして女の子の声をそれ以上聞けなかった事がちょっぴり残念だった総一だった。
そんな二人の様子をそれぞれの親は微笑ましく見守っていた。
婚約者ができてよかったね、総一くん!(ゲス顔)
なお、某ヤクザな借金取りの黒魔術師は幼い頃に訓練の一環として、危機を前に目を閉じないようにするために、柱にくくりつけられて棒でぶん殴られていたとか。