第35話 旅立ちの前のひととき
町歩きから帰ってくると夕食の準備でメイドや執事たちが慌ただしく動いていた。
「明日発つのか」と少々寂しそうにつぶやくセリュス。
「ああ。 アルディスのところへ寄ろうと思う」とコルヴァン。
「もう少しいればいいのに」ムルヴァが口を尖らせるとディオルグが笑った。
「また会える。 今夜は盛大な晩餐会にしよう」
やがて大広間の長い食卓に料理が並べられる。
大きな長い食卓。 豪華というよりも温かみのある手料理たち。
香ばしく焼き上げられた肉のロースト、滋味深い香草スープ、彩り豊かな野菜のグリル。 そして中央にはひときわ存在感を放つ料理――ノヴァ家で代々受け継がれる月影シチューパイが鎮座していた。
厚い生地の表面は黄金色に輝き、ナイフを入れるとふわりと白い蒸気が立ちのぼる。 中から現れるのは月光草を煮込んだ乳白色のシチュー。 ほのかな光を宿しやさしい香りが一瞬にして広間を満たした。
「これが出るとやっと家族が揃った気がするんだ」
ムルヴァが目を細め、ディオルグも懐かしそうに頷いた。
「……優しい香りがしますね」
ミレナは胸いっぱいにその香りを吸い込みながら思わず微笑んだ。 一口食べれば心の奥まで温かさが染み渡り、肩の力が自然と抜けていく。
和やかな空気が広がる中、ムルヴァがいたずらっぽく笑ってミレナに視線を向けた。
「ねぇミレナさん、コルヴァンのどんなところが好き?」
思いがけない問いに、ミレナは顔を真っ赤にして固まる。
「えっ……えっと……」
視線は泳ぎ声も小さく震える。 けれど、家族の穏やかな眼差しが背中を押してくれた。
「……真面目で、不器用だけど優しいところ……それに……絵本作りに一生懸命なところや……私が焼いたパンをいつも美味しそうに食べてくれるところ……です」
一瞬、食卓を静けさが包んだ。
やがてディオルグがふっと微笑み、セリュスも目を細めて頷く。
「やっぱり!」とムルヴァが声を上げ、場は再び和やかに笑い声で満たされた。
ヴァルドもセリューネも顔を見合わせて微笑み合い、セリューネが柔らかい声で告げる。
「コルヴァンを大切に思ってくれているのね。 ありがとう、ミレナさん」
「も、もういいだろ、その話は……!」
コルヴァンは耳まで赤くして抗議する。 だがその照れた様子にまた笑いが弾け、晩餐の夜はますます賑やかになっていった。
笑顔の輪に包まれながらミレナの胸の奥にじんわりと温かい思いが広がっていった。
夜も更け、ミレナとコルヴァンは部屋のバルコニーにいた。
空には満天の星が広がり月の光が静かに庭を照らしている。
「楽しかったですね」
「ああ」
短く返事をするコルヴァンの横顔はとても穏やかで、なんだか自分まで心満たされる気持ちになるミレナ。
「明日はアルディスさんのところへ行くんですよね。 楽しみですね」
「明日は長く船に乗ることになる。 遠いからな」
「わくわくします」と微笑むと、コルヴァンは夜風で乱れたミレナの髪をなでた。
ドキドキして俯くミレナ。
「今夜はしっかり休むように」
「はい」
満天の星の輝きが二人に穏やかな余韻を残す。
この瞬間の温もりは、次の冒険への期待とともに心に静かに刻まれていった。
翌日。 支度を整えて部屋を出るとフェルが待っていた。
「おはよう。 お二人さん」
「おはようございます。 あの、いろいろお世話になりました」ぺこりと頭を下げるミレナ。
「いやいや。 嬢ちゃん、楽しかったみたいだな」
「はい。 みなさんとてもお優しい方たちばかりで」
うんうんと頷くフェルはコルヴァンを見る。
「ここに来たときよりもいい顔になってるぞ」
「そうか?」
「ヴァルド様たちがお待ちだ」
フェルはそう言うとミレナとコルヴァンを城門へ案内した。
「あーあ、ほんとに行っちゃうのか」とムルヴァ。
「お前が末っ子みたいだな」とディオルグ。
「アルディス様のところまで道のりは遠い。 気をつけて行くんだぞ」とセリュス。
「コルヴァン、身体に気をつけてね。 ミレナさん、またいらしてね」とセリューネ。
「今度来たときは結婚の報告か」とヴァルド。
ヴァルドの言葉に一同絶句。
「ち、父上!?」驚くムルヴァ。
「まさか父上からそのような言葉が出るとは」ディオルグも驚きを隠せないでいる。
セリュスは固まり無言。
「あらあら」と笑うセリューネ。
ヴァルドたちの背後でフェルもクスクス笑っていた。
ミレナとコルヴァンは肩をすくめて赤面している。
朝から和やかムードの中、皆に見送られミレナとコルヴァンはアルディスのところへ向かった。




