第二節 分岐の扉(ドアーズ・オブ・デシジョン) 2
レオは帰宅した。およそ二週間ぶりの自宅。玄関前に立った瞬間、ほんの少し足が止まった。かつて当たり前のようにくぐった扉が、今はどこか、よそよそしく思える。
外観は以前と変わらぬ風景を保っていた。だが、玄関を開けた瞬間、室内に漂う空気は、わずかに張り詰めていた。
今朝、隔離施設からの解放が告げられた際、初日に押収されていた携帯端末が返却された。使用が許可されたので、その時、彼は真っ先に父母と連絡を取った。
シリウスは出なかったが、真凛とは繋がり、携帯端末の向こうで、真凛がほっとしたように息を吐き、そして静かに告げた。シリウスが故障して、通称「修理工場」と呼ばれる再構築施設に長期入院したと。
父の気配がないことは知っていたし、初めてのことでもなかったが、状況が状況だけに、寂しさを感じていた。
リビングの照明は落ち着いた暖色に設定されていたが、空間のどこかに影が落ちているように感じられた。
ソファに座っていた真凛が、すぐに立ち上がる。白いセミフォーマルの服を纏った彼女の姿は、整っていたが、その目には、長い時間を抱えてきた人間特有の疲労と、そして何よりも、心の奥に沈められた心配の色があった。
「……おかえりなさい、レオ」
その声は、震えてはいなかった。しかし、普段の穏やかさとは異なる、祈るような響きを含んでいた。
レオはゆっくりと頷いた。
「ただいま」
たったそれだけのやり取りだったが、部屋の空気がわずかに動いた気がした。
真凛は、何かを言いかけて口を閉じ、ほんの少しレオのそばに歩み寄った。再会の抱擁はなかったが、その距離に、言葉以上のものが込められていた。
レオの心に、不安と痛みを抱えて、この時間を待ち続けていた母の思いが伝わり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
自宅で過ごしていて、レオは様々な異変に気付いた。今まで管理がいい加減だった冷蔵庫に、野菜や生肉、生魚が入っていて、しかも低資質、低カロリー、高タンパク質の良質なものばかりになっていた。
ペットボトルのミネラルウォーターも、体内バランスを健全化し、良好に保つ為の高価なものに変わっていた。洗濯に使用する洗剤も、タオルも新品になっていて、肌のダメージを小さく抑える商品に変わっている。
嫌な予感がしてレオは二人の寝室に入ると、思った通り、角膜を回復し、視神経を通じて脳の視覚情報処理を健常化する専用コンタクト、脳波を整える非侵襲性ヘッドギアがあった。
これらは機械人類になる為の自我移植手術を受ける前に、脳の機能を整えると同時に、自我を切り離した身体を冷凍保存する為に必要とされる措置だった。
「……母さん、手術を受けるつもりなのか?」
リビングでくつろぐ真凛に話しかけるレオの声は硬かった。彼女の対面に立つまで、彼は胸の中で沸き起こって来る感情を何とか抑えようとしていた。
「まだ受けると決めたわけじゃない。だれど……受けたいとは思ってる」
真凛は静かに言った。冷たい瞳ではなかった。ただ、そこにはどこか“人間的な限界”を見据えた者の、静かな諦念があった。
「私はもう、希望を見いだせないの。日に日に差別は激しくなっている。機械の身体を手に入れれば、お父さんと機械人類の多く暮す地区に転居できる。それに感情も、記憶も、外見も、劣化しない。能力は逆に上昇する」
「でも、それは……それはもう“母さん”じゃない」
レオは極力感情を押さえた声で言った
「違うわ。外見も、声も、記憶も、性格も、すべて移植される。電子脳への自我の移殖は、完璧と言っていい。私は、シリウスと“同じ存在”になりたいの。もう、苦しまずに済む未来を手に入れるために……シリウスと、同じ時間を歩むために」
その言葉を聞いた瞬間、レオの中で堰が切れた。
「じゃあ、俺はなんだ? どうしてこんな存在にされたんだ! 現生人類でも、超人類でもない。どこにも属せない、居場所のない存在に! ついさっきまでそのせいで隔離されてたんだぞ!」
声が割れ、怒りが爆発した。
拳を握りしめ、レオは母を睨んだ。部屋の空気は重く、窓の外では風が冬の木々を揺らしていた。
だが、真凛は決してその怒りを受け流さなかった。
目を逸らさず、まっすぐにレオを見返し、言葉を紡いだ。
「あなたは——私たちの希望だった」
その声は優しく、けれど苦かった。
「お父さんと私は、人類の未来を信じていた。あなたが、その架け橋になると。でも……生身の人類と、機械の身体を持つ人類は、結局、交わらなかった。青臭い理想論だった……」
レオの拳が震えた。
彼は知っていた。母の言葉が、責任逃れではないことを。彼女もまた、悩み、苦しみ、もがいた末にここへ辿り着いたことを。
だが、それでも彼は叫ばずにはいられなかった。
「勝手なこと言うなよ! 逃げられない俺はどうしたらいいんだ!」
沈黙が部屋を包む。
真凛は立ち上がり、レオの前まで歩み寄る。彼の頬に手を伸ばし、そして——静かに言った。
「あなたは、“可能性”だった。今でも、そう思ってる。たとえ私が機械になっても、その想いは消えない。レオ……あなたは、誰にも定義されない存在。だからこそ、あなた自身が、何者かを決めるべきなのよ」
涙は流れなかった。
母も、息子も、もはや互いの感情をぶつけ合っても理解し合えない、乗り越えられない地点に立っていた。
レオは、その言葉を胸に刻んだまま、何も返さず、家を出た。外の風は鋭く頬を切ったが、その冷たさが、かえって彼を現実に引き戻した。
——分岐の扉は、今、目の前にある。
それを開くのは、他でもない、自分自身なのだと。




