第二節 識別センター
飛霞自治州南部、すでに廃棄されつつあった古い病院施設の地下フロア。その一角に、白く塗り直された小部屋が静かに存在していた。
――第七臨時個体特性精査・識別センター。
通称〈スクリーニング・ルーム〉。だが、その無機質な呼称が包み隠そうとしている実態は、あまりにも明確だった。
名目上は「自己申告のための補助施設」と称されている。だが、実際には、自己申告を怠れば、当局により即時に拘束・連行され、検査を受け、分類される。
場合によっては、隔離処置すら講じられる。人類が「種別」によって再構築されるこの時代において、そこは静かに、その最前線に位置していた。
携帯端末に届く通知。それは、日時と集合場所を記した冷たい指令。そこへ向かえば、待ち構えているのは灰色の無言のトラム。疑問や反論の余地は与えられない。
レオとミナトは、事前に落ち合っていた。だがこの日ばかりは、互いの声すら、距離を測るように乏しかった。無言のまま座席に揺られ、トラムの車窓に流れる白い光景をただ見つめることしかできなかった。
施設の内部は、まるで時間そのものが凍りついたかのようだった。
床、壁、天井……どこを見ても、余計な色は存在しない。白。すべてが白。殺菌され、清浄で、光の出どころすら判別不能な、完全なる白の空間。音がない。風もない。人の気配すら、どこか不自然に希薄だ。
二人は、床に埋め込まれた細いラインに従って、無言のまま廊下を進んだ。
やがて行く手に、無色透明の扉が現れた。
その扉の前には、数人の人々が静かに立ち、順番を待っていた。その列の中には、驚くほど幼い子どもの姿さえあった。
「――場所が違います。こちらへ並んでください」
背後から届いたその声は、完璧に均された無機の音色だった。
振り返ると、ひとりの女性型アンドロイドが立っていた。
感情の起伏はなく、瞳に宿るものもない。額に埋め込まれた青白く明滅する認証装置だけが、彼女の「人ならざる存在」を物語っていた。制服には〈生体識別局〉の紋章が刺繍されていた。
レオは、ためらいながらも口を開いた。
「“分類”は、あなたたちアンドロイドが行うのか?」
「いいえ。分類は、専門のトランス・ウルトラ・ヒューマン及び機械人類が担当しています」
「分類基準は?」
「遺伝子配列、出生記録、身体改変履歴、及び神経接続数の四項目です」
「だが……それだけで判断できない者もいる。境界上の個体はどうするんだ? たとえば曖昧なケース、いわゆる“グレーゾーン”の人間は」
「定性情報は用いません。主観を排し、数字のみで判断する。従来の、人間が定義していた“人間らしさ”というあいまいな概念を、再構築しようとしていると聞いています」
冷ややかに返されたその返答に、レオは小さく吐息をこぼし、列の最後尾に並んだ。
足元の白い床に、ふたつの影が落ちていた。一つは、彼自身のもの。もう一つは、そのすぐ背後に立つミナトのものだった。
彼女は手に番号札を握りしめ、白い壁に背を預けていた。
整えられた前髪、肩先でまっすぐ揃った漆黒のストレートヘア。左右対称に美しく流れるその髪は、人工物のように整っていて、どこか中性的な印象を与えていた。
すらりとした体つき。整った輪郭。わずかに灰みを帯びた黒曜石の瞳。だが、その瞳の奥には光がなかった。
そして、表情の表面には、微かにひび割れたような、不安の色が滲んでいた。
「……レオ。もし、分類されたら……」
ミナトが、かすれた声で囁いた。
「もし“あなたは境界人です”って正式に認定されたら、私は……何を失うんだろう」
レオはしばし沈黙し、口を開いた。
「……どんな心境の変化が起こるか、それは俺にも分からない」
「仕事も、人間関係も、研究者として築いてきたことすべてが……すべて、失われるのかな」
彼が何かを言いかけた、そのときだった。
『No.058の方、お入りください』
アナウンスがレオの番号を読み上げた。すりガラスの扉が音もなく開かれ、その奥から、人工知能によって制御された診断装置の声が無機的に誘導を始める。
レオが扉に向かって歩みを進めると、ミナトも思わずその背に手を伸ばしかけた。
だがその瞬間、警告音とともに赤い光の結界が彼女の前に立ち上がった。
『登録対象者以外の侵入は認められません』
ミナトは、その場に立ち尽くした。目の奥に浮かぶのは、ただ不安だけ。恐れではなく、怯えではない。不安。それだけ。
レオが振り返る。
「行ってくるよ。分析結果を聞かされるだけだ。別に命を取られるわけじゃない」
そして、彼の姿は扉の奥へと消えていった。
扉は音もなく閉ざされ、レオの背は、白の中に溶けた。
 




