第七節 対話の扉
夜の帳が飛霞自治区を包み込む頃、レオはひとり、低重力設計の中層庭園にいた。
人工の月光が淡く差し込み、鏡面仕上げの水盤に点々と青い光を落としていた。
空には星のない虚空が広がり、都市ネットワークの流れが光の線となって交差している。
その静寂を破るように、背後から足音が響いた。振り返ると、そこには見慣れぬ人物が立っていた。
「初めまして、大川戸レオ」
声音は柔らかく、だがその内奥には鋼の意志を秘めていた。人物は中性的な容姿をしていた。白金に近い銀色の長髪、光を帯びる虹彩、衣服は機能美を体現するような緩やかな装束で、その一部は有機的に蠢いていた。
「私はアマラ=セリューズ。トランス・ウルトラ・ヒューマン評議会の特使として、あなたに会いに来ました」
その名前に聞き覚えはなかったが、レオは直感的に、彼/彼女がただの使者ではないと悟った。空間に満ちる圧力が、言葉以上の情報を語っていた。
「警戒しないで。ここは記録されていない空間。あなたに問いかけたいのは、ひとつだけ」
アマラはゆっくりと歩み寄り、レオの隣に立った。
「――君は、“人間”であることを、どう定義している?」
レオはその問いに即答できなかった。父は機械、母は現生人類。自身は両者の狭間にある。遺伝的には人間だが、社会的には分類不能。だが、それ以上にこの問いは、彼の内部に眠る“自己存在の根源”を揺さぶった。
「まだ……分からない。でも、僕は、誰かの道具にはなりたくない。誰かの“象徴”として操られるのも、怖い」
その言葉に、アマラは静かに頷いた。
「君はすでに、いくつもの“枠組み”を越えている。生殖、死、記憶、進化――どれもが、今の君にとって境界線に過ぎない」
レオは問い返した。
「君たち、トランス・ウルトラ・ヒューマンはどうなんだ? 境界を越えた先に、何があると思ってる?」
アマラはわずかに視線を空に向けた。
「トランス・ウルトラ・ヒューマンは限界を超えたがゆえに、ある種の“喪失”を抱えている。感覚の延長にあるはずの“死”が、もはや定義できない。記憶は完全であるがゆえに、忘却による救済もない。進化は終端を示さない……それは苦しみでもある」
そして、そっと言葉を継いだ。
「だからこそ、私たちは“境界に立つ者”に希望を託すの。君のような存在に」
沈黙が流れた。だが、それは不穏なものではなかった。まるで、互いの存在が空間の中で呼応しているかのような、共鳴の沈黙だった。
「私たちは、君を“橋”だと見ている。旧き人類と、新しき存在とのあいだにかかる、脆くも強靭な橋として」
アマラの声には、冷たさと温かさがないまぜになっていた。そのどちらともつかない声の響きが、レオの心にひどく優しく、そして痛く刺さった。
「人間は、死ぬことで記憶を継ぐ。遺伝子と物語を、次の世代に手渡すようにして。それが人類の進化の根源だった。だが……私たちは違う。死なない。だから、記憶を“継ぐ”必要がない。すべての記憶は、私という存在に蓄積され続ける」
アマラは視線をレオの瞳の奥へと差し向けた。
「それが幸せかはわからない。記憶が死なないということは、忘れることも、赦すこともできないということだからだ」
レオは無言だった。だがその沈黙の奥では、何かがゆっくりと解けていくのを感じていた。ミナトの言葉は、観念的なものではない。彼女は本当に、“生きすぎてしまった存在”なのだ。
「君には、死ぬ可能性がある。子を成す可能性もある。忘れる自由もある。そして、選ぶ力がある。だから私は、君を羨ましいと思う。……嫉妬すらしているかもしれない」
彼女の口元に、かすかな自嘲の笑みが浮かんだ。
「私も、かつては人間だった。生身の肉体を持ち、心を傷つけることにおびえながら、それでも他者と繋がろうとしていた。でも、選んだ。恐れない存在になることを。それが、君と私の違いだ」
レオは思わず問い返す。
「それで、後悔は?」
沈黙が落ちた。
だがその静寂は、拒絶ではなく――誠実さの表現だった。
「ない。選んだこと自体に、意味がある。けれど、時々思う。もし、恐怖を克服できている人間と出会えていたら、私は別の未来を選んでいたかもしれない、と」
その言葉に、レオはわずかに息を呑んだ。
彼女の声には、孤独と、希望と、哀しみと――そして、ある種の祈りが滲んでいた。
「君が誰かの“希望”であると同時に、“問い”であることを忘れないで欲しい」
アマラは立ち上がると、一歩引いて、静かに言った。
「これは“勧誘”ではない。私たちはただ、君の選択を尊重することを誓う。その上で、共に歩む道を模索したい」
レオは答えなかった。ただ、胸の奥深くに、何かが芽生えたことだけは確かだった。
〈存在とは何か。自分は何者であるのか〉
その問いが、今、彼の中で静かに“扉”を開け始めていた。
 




