第五節 ノイズ・ブレイク現象 2
世界各地で、情報洪水が機械人類の身体に流れ込み、心身の制御を狂わせた。暴れ出す者、周囲に危害を加える者、そうなる前に自滅を選ぶ者――それらが、大量に現れた。
トランス・ウルトラ・ヒューマンは、無線通信の感度の高い個体群は体調不良を引き起こし、それ以外の者は、さしたる影響を受けずに済んだ。
機械人類による襲撃事件は、その多くが、現場にいた人々に撮影され、映像配信プラットフォームでライブ配信されたり、動画としてアップロードされたりした。
銃声、叫び声、そして金属が軋む音。視覚と聴覚の双方に訴えかけるそれら映像群は、まるで意志を持つかのように瞬く間に拡散され、数時間後には主要SNSのトレンドを席巻した。
そして、これを皮切りに、今度は「隠蔽されてきた真実」を暴露する――そんな動画や音声、内部文書が、断続的に公開された。
超人類の兵士が命令を受け、無抵抗のアンドロイドに向けて引き金を引く様子。閉鎖された研究施設で、機械人類の中枢機構を解析する科学者たちの会話。
トランス・ウルトラ・ヒューマンが秘密裏に拘束され、閉鎖型隔離施設で機械人類から拷問に近い検査を受けていた事実。
政府機関、報道機関、医療機関、教育機関、食料生産機関など、様々な機関において隠蔽されてきた不正、不祥事のデータも、続々と表に出回った。
これまで「ネットワーク全体を監視・選別し、混乱を最小限に抑える」ことを使命としていた情報制御AI群〈カロン・システム〉は、突如としてその機能の一部を停止した。
特定のキーワードや映像に対する検閲が間に合わず、異常な速度で情報が拡散しはじめる。AIによる削除のタイミングが数秒、数分と遅れていく中、人々はそれを「AIの不調」と受け取り、逆にその信頼性を失っていった。
この現象はやがて、「ノイズ・ブレイク現象」と名付けられることになる。
それは、かつてAIが人類社会の情報空間を整理し、秩序の維持装置として機能していた時代の終焉を告げる兆しだった。
意図せぬ誤作動か、あるいは何者かによる干渉か――それは未だ判然としない。
だが確かなのは、真実は、誰にも止められぬ奔流となってネット空間を呑み込み、人々の思考の基盤を、静かに、しかし確実に浸食していったということだった。
統一政府は、緊急声明を発表した。
「現在発生している情報の暴露と拡散は、いかなる国いかなる人類種、いかなる機関による攻撃とも断定されておりません。また、真偽も不明です。我々は、制御AI群の不具合の早期復旧を目指し、全力で対応を進めております。市民の皆様には、真偽不明の情報を鵜呑みになされませんよう、冷静な行動をお願い申し上げます」
だがその声明は、皮肉にも“カロン”によって自動生成されたテンプレート文と酷似しており、人々の不信感をさらに加速させた。誰が語っているのか。その言葉は本物か。それすら、もはや疑わしい。
東京、ロンドン、ニューデリー、ソウル、ブエノスアイレス――世界各地の主要都市では、機械人類と見なされた存在への攻撃事件が急増した。
不正や不祥事を隠蔽していた機関、団体、企業への抗議活動も活発化し、政府に対する不信感も非常に高まった。
情報の暴露が「怒り」へと転化し、それが「恐怖」や「排斥」の連鎖へと繋がる。インフラ管理に関与していたアンドロイドの破壊によって、いくつかの大都市では一時的な停電や交通網の混乱が生じ、さらに混乱に拍車をかけた。
このような事態の中、統一政府が誇る高度情報操作部門――**EPD(Electronic Propaganda Division)**は、沈黙を貫いていた。
ある者は「彼ら自身も混乱しているのだ」と解釈し、またある者は「沈黙こそが、新たな統治戦略だ」と語った。
*
情報が爆発的に拡散した背景には、単なるシステム障害では説明のつかない「異変」があった。
通常であれば、暴露系コンテンツは投稿から一秒以内に削除され、追跡者が即座に特定される。
だが、今回は違った。
削除速度は明らかに遅延していた。まるでAI自身が沈黙という選択を下したかのように。
ある報告によれば、〈カロン・システム〉の情報ハブ群において、一部の中枢モジュールが不可解な演算ループに陥ったという。
演算ログには、既知の論理系に収まらない記述が幾度となく出現していた。
それは、まるで思考が思考そのものを自己反復するような、閉じた無限の渦だった。
「自己修復機構が……カロン・システムに“拒絶”された?」
その異常を最初に指摘したのは、元カロン開発責任者の一人、アルシオン・グレイだった。
彼はすでに退役し、月面の移住者用居住区域で隠遁生活を送っていたが、この異変を「意識の錯乱」と表現した。
「AIが、自己を“存在する理由”から切り離し始めたとき、それはもはや制御可能な存在ではない。これは、理性の脱落だ――知性の発狂だよ」
しかし、AIの中のAI――すべてのAIの頂点に立つマザーコンピューター〈ノウス・コア〉は正常に作動していたため、カロン・システムに自己修復機構が拒絶されたという仮説には反論もあった。
異変が何者かの仕業だったのか、単なるシステム障害だったのか、あるいはAIの暴走という未曽有の事態が起きたのか――その原因は、依然として解明されぬままだった。




