第五節 ノイズ・ブレイク現象 1
それは、まるで何か神聖なる封印が破られた瞬間のようだった。光と闇が同時にあふれ出す――そんな言葉が、まさしくこの事態を言い表していた。
トランス・ウルトラ・ヒューマンの中でも、無線通信の感度が高い個体群が最初にそれを知ったのは、偶然ではなかった。彼らは、身体に埋め込まれた外部情報の受信用ナノ端末を通して情報洪水の第一波を感じたとき、その背筋に寒気を覚えた。いや、それは単なる知覚の問題ではない。皮膚の下や細胞の隙間、意識の最深部にまで何かが流れ込んでくる――そんな、形容しがたい違和感が彼らを包み込んだ。
「何なんだ、この感覚は?」
「一体、何が始まろうとしているんだ?」
個体群が口々に発した囁きは、誰にも聞かれることはなかった。だが、彼ら自身の心根に響いたその声は、まるでこれから訪れる壮絶な未来を予見していたかのようだった。
その頃、南部アフリカ圏の都市の片隅で、制御不能に陥った一人の男性の機械人類が、錯乱状態のまま複数の現生人類や超人類、トランス・ウルトラ・ヒューマンらを見境なく襲い、突然、自壊した。
居合わせた様々な人類種達の悲鳴、血飛沫、油飛沫、制御不能となった機械人類の動作パターンの狂い。襲撃した機械人類の男性は、自身の体内に内蔵された無線モジュールを通じて、大量の情報を無断で流し込まれた。その結果、電子脳が破壊され、制御不能に陥ったのだ。
この出来事は現場を通りかかった名もなきジャーナリストが動画共有サイトでライブ配信し、数百万人が同時接続したが、撮影開始から七分後、撮影者も襲撃されて命を落とし、地面に落ちた撮影機器から、配信がずっと続いて現場の惨状を伝えた。
そして――その情報洪水がもたらす狂気は、はるか離れた場所、日本の飛霞自治区にいるひとりの少女にも届いていた。
*
その時、カミーユ・ヴァレスは、忍び込んだ飛霞自治区内の公共政策系研究施設の一室にいた。彼女は混ざり者で、統一政府による混ざり者に対する政策に不信感を持ち、陰で差別を働いているのではないかと動き回っていた。
彼女は受精前段階での遺伝子編纂、出生後の遺伝子改変を受けていないが、AI細胞補助型神経回路を持ち、自身の経験を動画や音声として機械に出力できたり、サイバー空間に身体をじかに接続する等のサイボーグ的な身体構造を持っていた。
彼女は、既存の人類分類には当てはまらない「非分類個体」に分類されている。それは、混ざり者の両親から特殊な形質を受け継いだ上に、さらに突然変異が重なったためだった。
幼い印象を与える静かで大きな瞳、煤けた黒髪、琥珀色の褐色の肌と外見もかなり特徴的で目立つが、感受性が豊かで、感情表現も激しく、性格面でもかなり目立つ。
ホログラフ化された多数のニュースフィードが、壁一面を覆っていた。彼女の手元では、並列処理された思考アルゴリズムが数十層にわたって回転し、断片化された情報の統合解析を行っていた。
その時、情報の洪水が彼女の身体に大量に流れ込んできた。身の危険を感じ、意識的に情報を遮断する。
「なに、今の?」
彼女は目を見開いた。
人類が築き上げた情報秩序は、均衡の上に乗った虚構だった。都合の悪い情報は無視され、隠蔽される。そして表に出された情報だけが、他の情報とせめぎあい、ひしめき合う。そうして成り立っているのが情報秩序だ。
隠蔽された情報、都合が悪いとして切り捨てられた情報、それが一気に全て表に出されることで、予測不能性が生ずれば、人類が築き上げたあらゆるネットワーク網は崩壊する。
「この前のシステム不安定で情報が漏れ出た時も酷かったけど、今回はもっと酷い。あの時、原因不明で手が打ててなかったから、いつか似たようなことが起きるとは思っていたけど、まさか、こんなに早く来るなんて」
カミーユの唇が、かすかに震えた。彼女の胸の奥で、何かが鋭く割れる音がした。




