第四節 知性進化因子 5
その日の夜、研究所を後にしたミナトは、薄闇の広がる湾岸通りを抜け、人気のない横道へと足を踏み入れた。冷え込む夜風がコートの裾を揺らし、神経を過敏に刺激する。彼女は手の中の携帯端末を操作し、ある男へと連絡を入れた。
ミナトからの呼び出しは珍しく、過去に二度しかなかった。
すぐに男から返信が届いた。いくつかの座標が提示され、尾行対策のルートも添えられていた。ミナトは指示に従い、裏道を転々と移動する。交差点では三度、振り返り、しばし立ち止まる。防犯カメラの死角を選び、民家の影を縫うようにして進む。
その最中、彼女はふと足を止めた。荒んだ夜空を見上げる。
――もう、止められないかもしれない。
そう胸の裡で呟いたとき、心臓の鼓動が僅かに跳ねた。世界は音もなく崩れていく。その先頭に、自分自身が立っているような錯覚がした。
やがて、指定された薄暗い路地裏に辿り着いた。そこには、既に黒いスーツの男が立っていた。
「君から連絡が来るとは思わなかったよ」
「あなたじゃ話にならない」
ミナトは一切の挨拶を省き、怒りを押し殺した声で言った。
「ボスを出して」
男は少し戸惑い、口元を歪めるように笑ったが、すぐにその笑みは消えた。彼女の眼差しが、言葉よりも鋭く刺さったのだ。
「……わかった。だが、条件がある」
そう言って男は小型の通信端末を耳に当て、数秒のやり取りをした後、顔を上げた。
「通された。だが、例の手順を踏む。わかっているな?」
ミナトは無言で頷いた。
その場で目隠しが施され、身体検査が始まる。掌を撫で、靴の中まで確認された。小さな金属片や記録媒体の有無を確かめられたあと、手錠が掛けられる。
「少し、揺れるぞ」男が言い、ミナトは車に乗せられた。
車は路地を抜け、無言のままおよそ三十分の移動を経て、どこかの地下施設へと辿り着いた。鉄製の扉が軋み、黴の臭いが立ち込める長い通路を歩かされる。足音だけがコンクリートに響いた。
やがて通されたのは、窓のない小さな部屋だった。薄暗く、殺風景で、簡素な椅子が、テーブルを挟んで向かい合わせに二脚だけ置かれている。
そこでようやく目隠しが外され、手錠が外された。
彼女の視界に入ったのは、まるで映像作品から抜け出したかのような男――若々しく整った顔立ち、20代前半ほどに見える美貌の持ち主――彼がボスだった。
しかし、ミナトは一瞬で、その外見に意味がないことを悟った。
その瞳に宿る光だけが、本当の年齢を語っていた。
「お待たせしました、篁ミナトさん」
ボスは、どこまでも丁寧に、そして穏やかに微笑んだ。
「私との面会を希望されたとのことで、急遽この場を用意させて頂きました。さて、ご用件をお聞かせいただけますか」
ミナトは怒りを隠そうともしなかった。
「うちの研究所の〈海洋観測ステーション〉で、生物に異変が起きた。まるで知性を獲得したかのような異常行動を示し始めた。調べてみたら、未知の因子が見つかった。『知性進化因子』と仮に名付けている……あなたたちの仕業じゃないの?」
ボスは、ゆったりと首を傾げた。まるで品の良い舞踏会で相手に敬意を示すように。
「それは……我々の仕業ではありませんよ、篁さん」
その口調には嘲りも侮蔑もなかった。ただ、余裕だけがあった。
「大川戸レオが〈ステラ・エリュシオン・ノード〉で、ミューズと進化理論に関する共同研究をしていたこと、一切知らされてなかった。レオの理論は、あなたたちの目的にとって好都合よね?」
ボスは涼やかな微笑を浮かべたまま、やや前かがみになった。
「あなたが、全てを知る必要はないはずですよ。……もし不服であれば、どうぞご自由に。あなたにはその権利があります」
ミナトの眼は鋭く光った。しかし、彼女は一言も返さなかった。ただ静かに、確信のような沈黙が場に立ち込めた。
しばらくして、彼女は一歩、後ずさりする。
「……あなたの口ぶりこそ、何よりの証拠よ」
ボスは何も返さなかった。声を発する代わりに、ただその目でミナトの本質を見抜こうとしていた。
ミナトは、最後に一度、睨みつけるように彼を見つめ、そのまま踵を返して部屋を出た。扉の外では先ほどの男が待っており、彼女の背を追うように静かに歩き始めた。
小部屋に残されたボスは、天井の低い空間を見上げるようにして、微かに息を吐いた。
「彼女は、色々と知りすぎてしまいましたね」
彼の傍らには、黙したまま控えている影が一つ。
「……そろそろ、切り時かもしれません」
その言葉は、感情というものがまるで伴わない声音で発せられ、不気味なほどに事務的であった。




