第一節 選別された日常 5
少し間の後――背後のドアが、静かに開いた。
「初日から随分と熱心ですね」
その声は冷たく、低く、だが明瞭だった。振り返ると、そこに立っていたのは篁ミナトだった。
白衣の裾がわずかに揺れ、鋭い目がレオをまっすぐに射抜いていた。まるで水中生物のように、静かで、しかし揺るぎない視線。レオは息を呑んだ。
「私は篁ミナト。主任研究員で、この施設の第二研究ブロック・人工水生生命体部門の統括責任者をしています」
その声は穏やかだが、無駄のない明瞭さを湛えていた。感情を抑えた語調の裏に、確かな意志が息づいている。
篁ミナトという人物は、ただそこに立っているだけで周囲の注意を引く。強いというより、静かに重心のある存在――気づけば、その佇まいに思考の流れを引き寄せられていた。
レオは反射的に姿勢を正した。目の前の人物に失礼のないよう、慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと名乗った。
「大川戸レオです。先月まで〈シン・バイオ統合研究機構〉に所属していましたが、本日からから正式にこちらの研究員として配属されました」
自分でも驚くほど声は落ち着いていたが、掌には薄く汗が滲んでいた。篁ミナトの存在は、ただそこにいるだけで空気の密度を変える。そんな感覚があった。
「ええ、知っています」
ミナトはわずかに頷いた。まぶたの奥に宿る観察者の光は、レオを測るように静かに揺れていた。
「アンドロイドの父を持ち、母親は現生人類、そして”みなし超人類”――あなたのような経歴を持つ人材は、とても極めて珍しいですから」
その声音はあくまで事実を述べるだけのものだった。感情も色もない、冷静な分析の語調。それでも、レオの胸には微かな違和が突き刺さった。
そうだ。
彼はこれまで幾度となく、その“血の由来”に注目されてきた。好奇心、軽蔑、賞賛、警戒、あるいは――憐れみ。どれも、彼の望んだ視線ではなかった。
今この瞬間も、自分の存在そのものを切り取られ、解剖されるような感覚に、ほんのわずかだが、心がざらついた。
ミナトはその変化を見逃さなかった。目の奥に、かすかな陰りが走ったように見えた。だが、彼女は一拍の間を置いてから、まるで別の文脈を引き出すように言った。
「……あなたの存在は、もしかするとこの世界を変えるきっかけになるかもしれない」
不意の言葉に、レオは思考の足を止めた。
その声音には、どこか微細な、だが確かな熱が宿っていた。皮膚の表面にふっと風が吹き抜けるような感覚と共に、彼の中の警戒が、少しずつ緩んでいくのを感じた。
篁ミナトの瞳には、冷たさだけでなく、深い洞察と希望の色が、微かに宿っていた。
「期待しています。頑張ってください」
それだけを言い残し、ミナトは白衣の裾を揺らしながら静かにその場を離れていった。
レオはその背を目で追った。何かを断ち切るような、しかし柔らかく空間を切り取るような、そんな歩き方だった。
ほどなく彼女の姿は研究室の扉の向こうへと消えていった。
残された静寂の中、レオはしばらくその場に佇んでいた。透明な水の向こうを泳ぐ無数の試験生物の影。だが、彼の意識はそれらには向かわなかった。
――あの言葉だ。
ただの分析でもなく、ただの同情でもない、何かが――彼の存在に価値を見出す何かが、あの言葉の中にはあった。
人工水槽のある区画を出たレオは、長い無機質な廊下を歩いていた。
心の中に、彼女の声が残響のようにこだましていた。
『アンドロイドの父を持ち、母親は現生人類、そして”みなし超人類”――あなたのような経歴を持つ人材は、とても極めて珍しいですから』
『あなたの存在は、もしかするとこの世界を変えるきっかけになるかもしれない』
『期待しています。頑張ってください』
それは研究者としての言葉でありながら、人間としての興味、もっと深い何かを含んでいるように感じられた。
レオは思わず足を止め、振り返った。
閉ざされた区画の扉だけが、無言で彼の視線を受け止めていた。
彼女の言葉、そして視線は、彼の過去を問わなかった。彼の「未来」を見ていた。
そのことが、レオの心に妙なざわめきを残していた。
通路の先で、同じ研究区画に所属するらしい別の技術者が軽く会釈を寄越してきた。レオも反射的に頭を下げるが、意識はまだあの女性――篁ミナトに向いたままだった。
(篁ミナト……。なんだか不思議な人だったな……)




