第二節 都市の光、進化の影
その夜、レオは遠回りをして帰路についた。
湾岸の研究所からほど近いベイタワー駅前広場――地上と空中を行き交うリニア・トラムの中継拠点であり、再開発された商業エリアの心臓部でもある。アスファルトの肌に沈む夜の冷気は、彼のコートの裾からしんしんと体内へ染み込んでくるようだった。
彼はなぜか、家にまっすぐ帰る気になれなかった。
第六小会議室での、あの冷たい沈黙が、未だ皮膚の内側に残っているようだった。
声を出しても、空気に溶けて消えていくあの感覚――資料を整え、発言の機を待っていた自分に、一瞥すら向けなかった同僚たちの背中。
それは、今に始まったことではなかった。過去に何度も開かれた同じ「種別調整会議」の場で、彼は同じように「存在しない者」として扱われてきた。
議題に関わる知識があることを示しても、情報を共有しても、それが返ってくることはなかった。会議が終わった後には、「気にするな」といった言葉が、まるで「鈍感であれ」と命じるように投げかけられるだけだった。
〈みなし超人類〉。
その称号は、彼を守るはずの盾である一方で、冷たいラベルにもなった。
後天的な改造を経た者たちとは異なり、彼の出生には最初から「混成」の要素が組み込まれていた。
人工人造精子と、現生人類の母の卵子――人の手によって調整され、選別された“意図された生”の産物。
自然な両親の組み合わせから生まれた〈純粋な現生人類〉たちの間で、彼の存在はどこか浮いていた。
「優れている」か「劣っている」かではない。ただ、そのどちらにも完全には属さないという事実が、
彼を「分類の外」に追いやった。
その存在を誰も名指すことができず、だからこそ、誰も真正面から向き合おうとしなかった。
あの会議で、矢代主任の言った「統制上の問題」という曖昧な言葉。
それは実際には、“お前の存在は、場を乱す”ということに他ならなかった。
そして、その直後に廊下ですれ違ったアイラ・クォートの、視線さえ交わさず去っていった冷たい横顔――
必要ないもの、風景の一部のように扱われること。
それが、今の自分なのだと突きつけられたようだった。
以前、仕事でミスをした時、同僚の研究員が冗談めかして口にしたことがある。
『君みたいなのってさ、もう数世代前の“試作機”みたいなもんだろ?』
発言の直後、同僚は言動が差別的だとして窘められ、レオに謝罪した。
けれど、その一言に込められていた侮蔑の色は、今になって異様な鮮明さで脳裏をよぎる。
そこには明らかに線が引かれていた。
人でも、機械でもない。どちらかに属するわけでもなく、どちらにも歓迎されない。
アンドロイドを父に持つという、制度の網をかいくぐった“例外”――。
それが彼の出自に貼りついた、剥がれない汚名だった。
AIよりも計算は遅く、超人類のように思考を飛躍させることもできず、
かといって純粋な現生人類たちと血の同胞意識を共有できるわけでもない。
彼の立ち位置は、いつだって曖昧で、どこにも収まらない半端な空白のままだった。
歩道の端に立ち止まり、レオは冬の夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。
だが、冷たさがどれだけ深く染み込んでも、その胸に沈む苦味は消えなかった。
ただ、自分という存在が誰からも必要とされていないと感じるあの静けさが、今もどこかで続いている気がしてならなかった。
彼の背後を、誰の目も留めることなく通り過ぎていく人々の足音が、やけに硬質に響いていた。
何かを振り払うように、彼は駅前広場の自動販売機で缶コーヒーを買い、傍のベンチに腰を下ろした。夜の喧騒は、地を這う光の粒子となって彼の視界をちらつかせる。
そのときだった。
空中に浮かぶようにして、巨大なホログラムスクリーンが起動した。
半透明の立方体が回転し、やがてその内部に現れたのは、完璧に整えられた顔立ちの青年だった。皮膚の下に透けて見える回路――人間の美の規範すら凌駕する構造美――彼はまさしく「トランス・ウルトラ・ヒューマン」のモデル体だった。
「進化とは、可能性を信じること――」
「人は、己の限界を知ったとき、初めて“新たな種”へと昇華する」
「私たちは、生まれ変わる。肉体の制約から、老いの束縛から、苦痛の意味から、すべてを解き放たれ――“真の自由”を手にするのだ」
プロパガンダ映像は、そのメッセージ性を一片の曖昧さもなく明瞭に、見る者の脳へ直接訴えかけてくる。音声はなく、脳波に同調した字幕が視神経に直接焼き付くように表示されていた。
レオは、息を呑んだ。
映像の背景に映るのは、都市の高層域を軽やかに移動する進化型人類――トランス・ウルトラ・ヒューマンたち。その動きはしなやかで、どこか夢の中のように滑らかだ。肉体の輪郭は人間のそれでありながら、機械と融合した四肢や神経接続装置が、彼らの存在に独特の静謐と洗練を与えている。
その傍らを歩く「旧型」の存在――現生人類たちは、誰もが視線を落とし、どこか所在なげに歩いていた。皮膚に機械の光もなく、情報の流れとも接続されていない彼らは、この空間においてあまりに“素”でありすぎた。
その群像の一人に、自分の姿が重なった気がした。
研究所で、見えない境界線に囲われながら会議室の片隅に座っていた自分。
AIより遅く、超人類ほど柔軟でもなく、データの波に呑まれながらもなお、人間であろうと足掻く自分。
「……俺は、何なんだろう……」
声にはならない呟きが、凍てついた空気のなかに溶けて消えた。
曖昧で、中途半端で、誰の進化にも「カウント」されない存在であるが、どれほど痛烈な孤独を伴うかを、あの映像は容赦なく照らし出していた。
映像の最後、ホログラムの青年がこちらをまっすぐに見つめた――そう錯覚させるほど強烈な、視線の演出だった。
「君は、“進化”を選ぶ覚悟があるか?」
そんな問いが、網膜に焼きついた字幕とともに、レオの心臓を冷たく貫いた。
缶コーヒーはすっかり冷めていた。
気づけば彼は、まだ一口も口をつけていなかった。
手に残る微かな熱だけが、唯一、自分が“今ここに在る”ことを教えていた。