第四節 知性進化因子 3
サガミ博士との話を終え、レオは重い足取りで海洋観測ステーションを後にした。
彼は真っ直ぐに中央研究棟へと戻ると、そのままミナトの研究室へ向かった。
ミナトの研究室は、最先端の技術に囲まれた空間でありながら、不思議と温もりが感じられた。壁一面のホロディスプレイには、最新の遺伝子構築アルゴリズムが滑らかに流れている。その光の中に浮かび上がるコードの奔流は、冷たいはずの科学の営みを、どこか詩的にすら感じさせた。
レオが来たことに気付くと、背後のホロスクリーンに向かっていた手を止め、レオのほうへと身体を向けた。
「どうしたの? あなたがこんな時間に研究室を訪ねてくるなんて珍しいわね」
ミナトは声色には柔らかな調子があり、警戒や緊張といった感情は見られない。ただ、予期しない訪問に対する純粋な疑問が、瞳の奥に浮かんでいた。
「少し、話があって」
レオは静かにそう答えると、室内を見回し、ミナトの様子を一瞥した。ミナトは立ったまま、手元のデータをホールド状態にしていた。レオは一瞬躊躇いながらも、相手の視線を受けてから、壁際に並ぶ椅子のひとつへと歩を進め、丁寧に腰を下ろした。
ミナトはレオのその仕草に目を細めながら、自らも向かいの椅子へと腰を下ろす。
「いいわ。何があったのか、聞かせて」
「……今、海洋観測ステーションで異常な現象が確認されてる。海水の温度、塩分濃度、pHバランス――すべてがこの数日で急激に変動した。加えて、クラゲの大量死、赤く変色した海藻、そして――ある種のバクテリアの爆発的な増殖」
ミナトが眉をひそめる。
「赤潮のような生態系異常? それとも――病原性の突然変異?」
「どちらでもない。いや、どちらにも似てるが、根本が違う。問題は、バクテリアの“活動パターン”なんだ。映像で見た限り、奴らはまるで……何かの指令に従って動いているようだった。個々の生命体が、知覚できない指令を共有しながら、環境全体を最適化してるように見えた」
ミナトは一瞬、言葉を失った。
レオは静かに視線を画面に向けたまま、口を開いた。
「実は……きみに話していなかったことがある。学生時代に執筆した、未発表の論文があるんだ。“マイクロ生態系における情報共有性と自己調整の相関モデル”――そういうタイトルだ」
「……ああ。あなたの経歴に載っていたわね。詳しい内容までは知らないけど、名前だけは覚えてる」
ミナトの声には、かすかな緊張が混じっていた。知らなかったことに対する戸惑いというより、これから語られる内容に対する予感が、すでに胸の奥で蠢いていた。
レオはそれに応えるように、モニターの映像を再生しながら低く呟いた。
「いま現実に起きているこの異変、それがまるで、その理論を――誰かが実践しているように見える」
「……なんですって?」
ミナトの眉がわずかに動いた。彼女の声が、かすかに揺れていた。
「実際、僕の理論の草稿と照合した結果、その因子の構造アルゴリズムは、95.2パーセント一致していたって、AIのカリストが解析してくれた。僕は公開した覚えはないし、保管していたデータも外部に送ったことはない」
レオの目には、怒りでも悲しみでもなく、ただ静かな疑念の色が宿っていた。
「つまり、誰かが、あなたの未発表の理論を……無断で使っている……と」
ミナトは深刻そうな表情を浮かべた。レオは眉間に苦悩の縦皺を刻む。
「深刻なのはそこじゃない」
「どういうこと?」
ミナトが聞き返す。
「俺の理論は、微小生命体の集団が、個体間で情報をやりとりしながら、環境変化に集団的に適応していくという仮説に基づいている。情報共有と自己調整――その密度と速度がある閾値を超えると、系は突如として進化的跳躍を起こす可能性がある……というモデルだった」
彼の指が画面上のグラフをなぞる。その指先に映る曲線は、まるで破断点を越えて急激に立ち上がる波のようだった。
「でも、本来ならそんな変化が起きるには、数年、あるいは数十年単位の時間が必要なはずだった。それが……これは……数週間で、起きている」
ミナトが、そっと息を呑んだ。
「ただ理論を無断使用しているだけでなく、進化を加速させることまでしてるってこと?」
レオはゆっくりとうなずいた。けれどその表情に浮かぶのは怒りでも困惑でもなく、むしろ、確信に近い静かな警戒だった。
「自然選択だけでは、この速度は説明できない。何か、外的な因子が強く関与してる。環境圧やウイルスの類じゃない。もっと意図的で、そして――高度なものだ」
レオは、画面の映像を一時停止させた。そこには、赤く変色した海藻の群れの中に、青白い光を帯びてゆらめく微小なバクテリア群が映っていた。
「仮称だけど、“〈知性進化因子〉”と呼ばれているものがある。自己複製、環境適応、行動予測、意思決定……それら全部を内包する特殊なタンパク群。しかも既存のRNA合成枠を越えて、未知の構造配列が検出された」
ミナトはゆっくりと椅子の背にもたれかかり、小さく息を呑んだ。
「……それって、もう“遺伝子”じゃなくて、“設計図”に近いわね。誰かが人工的作ったとしか思えない……」
ミナトは事態の深刻性を理解し、心の中に重いものが広がっていくのを感じた。




