第二節 同じ存在であるために 1
その頃から、レオの母・真凛の様子が、少しずつ変わり始めた。
食卓では笑顔が減り、夜になると一人で長くベランダに立って空を眺めることが増えた。どこか遠くを見つめるような、心ここにあらずの視線。けれど、それを誰かに指摘されれば、真凛はいつも「何でもない」と首を横に振ってしまう。
父・シリウスは、外見だけではアンドロイドだと見抜けない。皮膚は有機素材で覆われ、表情には柔らかな人間らしさがある。声色も感情の抑揚を持ち、しぐさにも不自然さは微塵もない。だが、この街の住民は、彼の正体を知っていた。
機械人類への偏見が、地域社会の中に静かに、しかし確実に広がっていた。人類種間の緊張が高まってからは、その波が明らかな形を取って押し寄せるようになっていた。
シリウスが一人で外出したある日、通りすがりの男性が彼を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「このアンドロイドが……」
面識のない人間だった。何の接点もないのに、憎悪だけが明確に向けられていた。
また別の日には、買い物中の彼の背後から、中年の女が怒鳴りつけた。
「何食わぬ顔して、人間の街を歩くなよ。お前みたいな存在がいるから、世の中おかしくなるんだ」
それまでは、真凛と一緒にいる時には、周囲の目も少しは遠慮がちだった。人前で夫婦を攻撃すれば、己の品格が問われる。そういう理性が、まだ働いていた。しかし、それも崩れ始めていた。
ある冬の午後。真凛とシリウスが連れ立って商店街を歩いていたとき、すれ違いざま、中年の女が彼女を指さして嘲笑った。
「アンドロイドと夫婦になるなんて、馬鹿じゃないの」
一瞬、時が止まったような気がした。
真凛は顔を上げて相手を見たが、言い返すこともできなかった。街の空気は変わっていた。もう、夫婦でいるだけで攻撃の対象になってしまう。差別や偏見が、無意識の暴力となって、あちこちで誰かを傷つけていた。二人は、胸の奥に小さな鋭い棘が刺さったような痛みを感じていた。
その夜のことだった。
自宅のキッチンで夕食の支度をしていた真凛の手が、ふと止まった。玉ねぎを切る手元が揺らぎ、包丁の刃が中途半端なところで止まっている。何かを考え込むように、遠くを見つめていた。
「……真凛?」
背後から、シリウスが声をかけた。
「どうした? 手が止まってるよ」
「……ううん、なんでもないの。ちょっと疲れただけ」
彼女は微笑もうとしたが、その笑顔は形だけのものだった。
夕食の後、リビングに移って、二人はコーヒーを淹れた。けれど、真凛の指先はカップを持ったまま震えていた。暖かいはずの飲み物を口にする気力もない。シリウスは、正面のソファに座る真凛をじっと見つめ、口を開いた。
「何か……悩んでいるのかい?」
少しの沈黙の後、真凛はゆっくりと頷いた。
「……自我の移植手術を、受けようかと思っているの」
シリウスは動きを止めた。コーヒーの香りだけが部屋に静かに広がっていた。
「機械人類に……なりたいのか?」
「なりたい……わけじゃない。ただ……なったほうが、いろんなことが……楽になる気がして」
真凛は言葉を選びながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
夫が受けている差別。それは機械人類の多い街に転居すれば和らぐかもしれない。だが、今度は自分が現生人類として差別される側になる。人類種が違うことが、結局はすべての原因なのだと、そう思った。
「だったら……私が、あなたに合わせればいいんじゃないかって。私が機械人類になれば、もう誰も変だって思わない。あなたと私が、同じ種になれば……全部、解決するんじゃないかって……」
シリウスは静かに首を横に振った。
「もし君が、心の底から機械人類になりたいと望むなら、僕は止めない。でも……差別から逃げるためだけに選ぶなら、必ず、後悔する。君が君であるということを、否定することになるから」
真凛はしばらく黙っていたが、やがて、口を開いた。
「……私ね、最近、自分の姿を鏡で見るのがつらくなってきたの。しわが増えて、しみも出てきて、肌もたるんで……少しずつ、老けていく。でも、あなたは……変わらない。ずっとそのまま。私だけが……どんどん、おばあちゃんになっていくみたい」
その声には、苦笑と、どうしようもない哀しみが混じっていた。
「それに……あなたは、半永久的に生きられる。でも私は、医学の力を借りても、せいぜい……百五十歳くらいが限界。私が死んでも、あなたは生きている。いつか、あなたにとって、私はただの……思い出になってしまうのよ」
シリウスは、その言葉に反論することができなかった。何を言っても、真凛の傷ついた心に届かない気がして、ただ、黙ってしまった。
長い沈黙が二人の間に流れた。部屋には時計の針の音だけが響いている。やがて、シリウスがそっと問いかけた。
「レオには……その話をしたのかい?」
真凛は、首を横に振った。
「……まだ。言えない。あの子には……まだ、言えないのよ」
その声には、母としてのためらいと、ひとりの女性としての揺らぎが入り混じっていた。レオがこの事実を知ったとき、どう反応するのか――その未来が、真凛には、まだ怖かった。




