第八節 情報爆発 3
その日の夕方には、都市を覆っていた異常な沈黙が、まるで最初から存在しなかったかのように解消された。
ネットワークは回復し、端末は何事もなかったかのように応答を返し始めた。統一政府から発表されたのは「技術的障害が発生した」という簡素な一文のみで、原因の詳細は明かされず、「現在も調査中」とだけ添えられていた。
エリュシオン・ノード内の各研究機関も徐々に平静を取り戻し、研究所は一時的な混乱の余韻を引きずりながらも、日常業務に戻りつつあった。
その静けさのなかで、ミナトは一通の連絡を受け取った。
携帯端末に表示された短い文面を一読すると、彼女は無言のまま研究室の扉を閉じ、白衣を脱ぎ、いつものように身軽な装いに着替えた。呼び出しの内容には何も記されていなかった。ただ場所と時刻のみ。だが、こうした曖昧さにも、彼女はもう慣れていた。
指定された地点へ向かう途中、ミナトは何度も背後の気配を意識した。さりげなく足取りを変え、通りを一つ外れて、いくつかの反射ミラーと監視カメラの死角を通過する。小さな尾行をまくのに必要なルートは、彼女の頭の中に地図のように刻み込まれていた。
やがて辿り着いたのは、ノードの外れにある旧式の空調制御施設。外見はすでに廃棄されて久しく、今では出入りする者もいない。だが、ミナトが錆びた扉を押し開けて中に入ると、そこには既に一人の男がいた。
「急に呼び出してすまなかったな」
低い声が、空気の奥で微かに響いた。
「私もちょうど、話したいことがあったから」
ミナトは扉の前に立ったまま答えた。
男は片眉を上げてから、手を軽く広げるようにして言った。
「レディーファーストだ。君からどうぞ」
ミナトは一歩、足を踏み出した。目を逸らすことなく、まっすぐに男を見据えたまま、口を開く。
「ノードの動作に異常が出て、各所でシステムトラブルが発生して。そして政府の機密情報らしきデータがネット上にばら撒かれている。……一体、何が起きてるの?」
男は一瞬沈黙し、次いで肩を竦めた。
「誰の仕業かは、まったくわからん。だが、情報の量と性質からして、内部の人間か、よほどのアクセス権限を持った第三者の関与は間違いない。政策に不満を持つ反政府勢力が関わっている可能性もあるが……統一政府がマークしている過激派グループの動きとは一致しない。少なくとも、奴らじゃない」
「じゃあ、どうして?」
男はミナトの問いに答えない。
「このあいだ、愛知湾岸中央水産研究所の地下サーバー棟と〈エリュシオン・ノード〉第七地下層の独立記録保存サーバ群への不正アクセスがあったばかり。そのすぐあとに今回の情報流出。偶然なんですか? 二つの事件、何か繋がってるんじゃないんですか?」
男はその場でわずかに体重を移動させ、視線を斜めにずらした。
わずかに間を置いて、呟くように答える。
「今回の件も、あの不正アクセスへの関与が疑われている機械人類によるものだった可能性は……わからない。だが、ないとは断言できない」
ミナトはさらに何かを訊ねようとした。だが、その唇が開くより早く、男の声がそれを遮った。
「それ以上を知る必要はない。君は、指示通りに動いていればいい。今日伝えたかったのはそれだけだ」
言葉に、感情の起伏はなかった。ただ切り捨てるような静けさがあった。
そして男は、背を向けた。
誰にも気づかれぬよう、気配を希薄にして、そのまま薄暗い通路の奥へと消えていった。
ミナトはその背中を見送るだけで、追おうとはしなかった。問いの余韻だけが、呼吸の中に残っていた。




