第一節 選別された日常 4
「どこか人を寄せ付けないような雰囲気を持っているけど、別に悪い人じゃないから、普通にしてたら問題ないよ」
日野がそう付け加えると、視線を部屋の奥へと向けた。
「それでは、研究室の中を案内します」
この世界では、研究に関する補助業務や実験作業の多くを、AIや機械、ロボットが担っている。
そのため、レオの主な業務は、研究者としての立場から彼らの作業をチェックし、得られた実験データを読み解き、分析・検討することだった。
博士号を取得し、高度な専門知識と論理的思考力を備えるレオですら、現場では研究そのものに没頭することは少なかった。
彼の実際の役割は、AIや機械たちを監督・統括し、適切な指示を与えて動かすことにあった。いわば、AIオペレーターであり、AIスーパーバイザーでもあり、時に統合管理者のように振る舞うのが日常だった。
日野が研究室を歩きながら説明していたのも、まさにこうした業務を円滑にこなすための設備や手順に関するものだった。
「ここが、レオさんのデスクになる場所です。機材とアカウントはもう通ってるから、すぐ使えるはずですよ」
最後に日野は研究室の奥に足を運び、軽い調子で言った。
レオは無言でうなずき、机上に並べられた端末類の配置と、壁際に設置された有機演算ユニットの構成に目を走らせた。
どれも先進的なものだったが、彼にとっては既知の技術ばかりだった。
「研究室の説明はこれで終わりです。このあと、オリエンテーションの予定が入っているけど、オリエンテーションルームの場所、わかります?」
「いえ、まだ所内の構造がよく……」
「それなら案内しますね」
日野はそう言うと、待ちかねていたように踵を返し、軽快な足取りで廊下へと進んだ。
レオは黙ってその背に従い、廊下を数歩進むと、エレベーターの前へと辿り着いた。
エレベーターの扉が開き、二人が中へ乗り込む。
扉が閉まる、その刹那――
ホールの奥に、篁ミナトの姿が見えた。長い脚、すらりとした立ち姿、そして――再び向けられた、あの冷たくも深い眼差し。
彼女は言葉ひとつ発することなく、ただ静かに、レオの姿を見つめていた。それはまるで、観察対象の挙動を分析する者のように。
*
数時間後。初日のオリエンテーションを終え、レオが部屋から廊下に出ると、そこには白衣姿の女性――日野が、待っていた。
「お疲れさま。ちょっと付き合ってもらえますか? 所長に、案内を頼まれてるの」
「案内、ですか?」
「うん。構内の見学も兼ねて――少し、面白いものを見せてあげる」
日野はそれだけ告げると、背を向けて歩き出した。レオは一瞬戸惑いながらも、後を追う。
所内の個別研究区画に案内されたレオは、静かな人工水槽の前に立っていた。
水中を泳ぐのは、透明な膜に包まれた半液体状の生物―― 未知の原始細胞群を基盤とし、そこにシャチ由来の社会的記憶応答遺伝子と、タコ由来の分散的情報処理系モデルを組み込むことで誘導的に成長させた水棲存在だった。
その行動には、環境からの刺激に応じて即座に反応する感応的連鎖が観察され、また個体を超えて群体間での情報共有が行われている兆候があった。
研究者たちはそこに“知性の萌芽”とも呼ぶべき反応性と統合性を見出そうとしていたが、知性の定義そのものが未だ曖昧であり、その存在が本当に「意志」を持つのかについては意見が分かれていた。
「見たことある? あれが"ミルメイド種α"。ミナト主任が三年前に設計したの」
隣に立っていた日野が言った。
「まるで……水そのものが意志を持ってるみたいだ」
「あれは“演算感応器官”を中心とした分散型の神経構造体よ。ナノスケールの演算繊維が液状になって水中に展開していて、個体の外部と内部の境界があいまいになってる。言い換えれば、液体そのものが神経系の役割を担ってるの。情報は水を介して伝わり、そこで即座に処理される」
レオは水槽に顔を近づけた。目の前で、ぼんやりと光る球状の構造体が彼を見返しているような錯覚に陥った。その存在の静けさ、無言の知性、そして底知れぬ生命の可能性。
水槽の向こうに広がる揺らめく青、透明なガラスの奥で、人工水生生命体が静かに遊泳し、微細な泡が水中に昇っていく。
肩を並べていた日野の端末が控えめな音で振動した。
「……あ、ごめんなさい。第二ラボのデータ調整で呼ばれたみたい」
端末の画面を確認した日野は、少し困ったように微笑んだ。
「この先は自由に見て回って大丈夫ですよ。ゆっくりしていってください」
そう言って軽く手を振ると、日野は白衣の裾を揺らして廊下の奥へと消えていった。