第八節 情報爆発 2
帰宅したレオが目にしたのは、真凛は研究所に、シリウスはエリュシオン・ノードに赴いた――そう記された、リビングテーブルの上の簡素な走り書きだった。
シリウスは、すでに第一線の研究からは退いていた。だが形式上とはいえ、彼はエリュシオン・ノードAI倫理委員会の特別顧問という肩書を持っており、名誉職とはいえ無関係ではいられない立場だった。今回のような技術的、あるいは社会的な異常が発生すれば、顔を出す必要があるのも当然でしかない。
真凛についても同様だった。彼女が所属する研究所が現在どのような状態にあるのかを、自分の目で確かめようとするのは、研究者として当然の判断だ。特に、機械人類やノードシステムに関わるような分野であれば、現場の影響を無視するわけにはいかない。
二人の行動は予測の範囲内だったが、こんな時にまで家で一人なのかと考えると、もやもやとした感情が残り、レオは静かに息を吐いた。
レオは重い足取りで自室に入ると、パーソナルデスクに腰を下ろし、端末を起動した。壁際のラックからスマートグラスを手に取り、装着。続けてエアキーボードを起動し、ネットワークへの接続を試みる。目的はただ一つ。現在の状況を掴むことだった。
画面に映し出された情報は、あまりに静かすぎた。
表面上は、何も起きていないかのようなネットワーク。政府はようやく「技術的障害が発生している」と発表したが、その内容はごく簡潔で、異様なまでに冷静だった。まるで給湯器の故障を報じる地域ニュースのような調子で、緊迫感のかけらもない。復旧作業中という説明の裏に、どれだけの異常が隠されていようと、明かされることはないだろう。
レオは無言で更に奥へと潜った。こうした対応には、もう驚きもない。隠蔽体質の酷い統一政府の平常運転だったからだ。
SNS――そこでは、何かが、かすかに泡立ち始めていた。
『政府管轄ノードが応答しないって本当?(削除済)』
『研究都市のバリア領域で異常通信波が観測されたって噂、誰か確認してくれ』
『保守ユニットが迂回ルートを通ってた。通常ルートじゃない。なんかあった?』
『“人類の進化モデル”って言葉、知ってる?最近やたら耳に入るんだけど』
投稿されては、数秒のうちに消える情報群。自動検閲のアルゴリズムが追い付いていない。否、それどころか、情報制御そのものが麻痺している可能性すらあった。普段なら瞬時に消えるであろう投稿が、断片的にだが画面上に留まり、無数のユーザーがかすかな手がかりを手繰り寄せようとしていた。
「情報が漏れてきてる?」
レオは自分の口をついて出た声に、一瞬驚いた。
そのときだった。端末が低く警告音を鳴らし、複数の暗号化ファイルが一斉に着信した。差出人は……いない。あるいは、無数にいた。特定不可能な発信源。多重化された仮想ノード経由で届いたと見られるそのファイル群は、レオの許可を待つこともなく自動的に開かれ始めた。
最初のファイルは、彼自身の出生に関する医学的記録だった。
続いて表示されたのは、〈混ざり者〉と呼ばれる存在に関する研究資料。そして――
〈エリュシオン・ノード〉に厳重に保管されていたはずの、トランス・ウルトラ・ヒューマン構成因子の設計図。
「……これは、本物なのか」
設計図に記された遺伝子配列と、自身の出生記録に記載されたDNA構成。いくつかの一致点が目に飛び込んできた。ノードが語った話と、ファイルの内容は符合している。だが、それだけでは証拠にならない。偽造ファイルの可能性もある。しかし……
〈混ざり者〉に関する資料にはこう記されていた。
――“混ざり者の大多数は四種の人類種に及ばぬ能力しか持たぬが、例外的に高能力型が誕生することがあり、彼らは4人類種間の序列と秩序に対する脅威となる恐れがある”――
さらに、研究に関与したとされる政府機関の名が列挙されていた。統一政府特権行動局、情報総局、新進化移行局、特別遺伝進化管理局、超進化選定庁……レオの耳には馴染みのない名ばかりだった。だが、その中には、つい先日レオに接触してきた統一政府進化政策局特務計画部の名も記されていた。
(……この形式、微妙に違うな……)
違和感が胸を打った。確かにフォーマットは“公式”に見えた。だが、父・シリウスがかつて政府の研究者として作成していたファイルとは細部が異なる。行間の詰まり、記号の使い方、そして文末の符号処理。何かが違っている。あからさまな偽物ではないが、本物とも言い切れない“曖昧な真実”がそこにあった。
(……まさか。この流出情報って、俺の出生に関する情報なのか?)
そう考えた瞬間、レオの背筋はぞっとするような冷気に包まれた。
『届いたファイル、自分の出生記録と混ざり者の研究資料なんだけど……他の人には、何が届いた?』
恐る恐るエアキーボードを叩くと、ほどなくして返信が届き始めた。
『人によって違うみたいだよ』
『こっちは超人類の遺伝研究に関するファイルだった。何なんだこれ』
『うちは現生人類の保護政策に関する考察資料みたいなレポート』
どうやら、情報は個別にばら撒かれているようだ。自分の記録が全体に公開されたわけではない。それを知った瞬間、レオはほんの少し、胸の奥で安堵を覚えた。
『それにしても、これ……本物なのか?』
『こんな情報ばら撒いて、得するやついる?』
『誰が、何のために?ノードの障害と関係してる?』
SNSの論点は、ファイルの信憑性から、背後にある意図へと移りつつあった。
漠然とした不安が、静かにレオの中に沈殿していく。
世界は、情報によって制御されている。
だが、情報が制御されなくなったとき、それは“真実の解放”ではなく、“秩序の崩壊”を招く。
今、世界の地盤に、深く静かな亀裂が走り始めている。
世界は、戻ることのできない地点へと、すでに差し掛かってしまったのかもしれない……。




