第八節 情報爆発 1
レオが勤務する愛知湾岸中央水産研究所で発生していたシステムの不安定化や、情報制限強化といった異変は、当初は局地的な不具合に過ぎないように思われた。だが、それは時の経過とともにじわじわと拡張し、社会全体に不気味な影を落としはじめていた。
その朝、レオはいつも通りに自室のベッドで目を覚ました。だが、微かな違和感が肌を這った。目に映る部屋の光景は変わらず静謐で整っている。だが、空気がどことなく澱んでいるように感じる……。嫌な予感がした。
無意識のうちに枕元の携帯端末に手を伸ばし、起動する。だが、ディスプレイが暗転し、いくつかの認証プロセスを経たあと、接続不能の表示が並んだ。いつもであれば瞬時に情報網の中心たる〈ノード・メイン〉と同期するはずが、完全な沈黙。バックアップ用ノードすら、断続的にエラーコードを返すばかりだった。
身体の奥底で、警鐘のような悪寒が鳴った。
リビングに向かうと、父・シリウスと母・真凛がすでに起きていた。二人ともまだパジャマ姿のまま、無言でそれぞれの端末に向かって操作を続けている。
シリウスは椅子に腰を下ろし、表情ひとつ動かさぬまま、どこか遠くを見つめていた。その頭部の奥――外からは見えぬ、合成皮膚の内側に組み込まれた無線通信モジュールが稼働している。まばたきひとつせず、彼の視線は実体のない情報空間へと向けられていた。
一方の真凛は、手にした携帯端末を器用に操りながら、何本もの通信を切り替えつつ各所と連絡を取っていた。その指先にはわずかな緊張が走っているが、顔には動揺の色はない。むしろ静けさの中に、よく研がれた思考の刃が光っているようだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込むなか、二人のあいだに交わされる言葉はない。ただ、それぞれの沈黙が、どこか同じ方向を向いていた。
普段は装飾品のように壁に沈黙している3Dホログラムディスプレイが、この日ばかりは立ち上がっていた。統一政府の公的ニュース番組が放送されている。だが、どのチャンネルも異変について一切触れようとしない。内容は前夜と変わらぬ「日常」の報道をなぞるばかりだった。
真凛がレオの気配に気づき、顔を上げた。その表情には隠しきれない不安と困惑が浮かんでいた。
「レオ、大規模なシステム障害が起きているみたいなの。私もお父さんも、知り合いに連絡を取ろうとしたけど、どこも繋がらなくて……通信網が遮断されているのかもしれないわ」
22世紀の社会において、超高速大容量通信網は既に完成されたインフラであり、たとえ膨大な一斉アクセスが集中しても回線がパンクするなどという現象は原理的に起こり得ない。つまり――この事態は、単なる回線の混雑ではない。情報の根幹を司るシステム本体、すなわち〈ノード・メイン〉に何らかの異常が生じているという、厳然たる証左だった。
網の目のように張り巡らされた連携網、AIとロボティクスによって支えられる全自動社会において、これは「起きてはならない事態」であり、同時に「起きるはずのない異変」だった。
レオは自室に戻り、端末から研究所およびミナトへの連絡を試みた。だが、予想通り、すべての回線は沈黙している。指導担当のケイ・イノセ博士、そしてアシスタントの日野にも繋がらない。喉の奥が急速に渇き、心拍数がじりじりと上がる。レオは急ぎスーツに着替え、最低限の身支度を整えてから再びリビングに戻った。
「とりあえず、研究所に行ってくる」
短くそう言い残し、家を出た。幸いにも自律移動ポッドはまだ稼働しており、乗り込むと静かに住宅街を抜けて研究所へと進路を取った。
車窓の向こう、街の風景は一見すれば平穏を保っている。だが、レオの視界には、細部がかつてとは異なる輝きをもって迫ってきていた。ノードとの接続によって視覚解析能力が向上して以来、世界は異様なまでの解像度で彼の脳内に流れ込んでくる。人々の顔の険しさ、街灯の光の揺らぎ、建物の壁面に刻まれた細微なひび割れまでもが、過剰なリアリズムで迫ってくる。――そして、そのすべてが、異常な緊張感に包まれていた。
やがて研究所に到着すると、意外なことに施設内は平穏だった。水生生物を多く抱えるこの施設では、中央ノードに障害が発生した際には外部接続を断ち、独立したサブシステムによって研究所全体を一時的に制御する仕組みが整備されていたのだ。
自分の研究室に入ると、日野の姿はなかった。代わりに、普段は電源を落とされたままのアシスタント用アンドロイドが静かに待機していた。
「少し出る。また戻る」
短く指示を伝え、ミナトの研究室へと足を向けた。
ミナトは、そこにいた。機材に囲まれた無機質な空間の中で、静かに佇んでいる。レオはその姿を見た瞬間、胸の中の重りがふっと軽くなるのを感じた。
「……よかった、無事だったんだな」
ミナトはレオの言葉に微笑みを返す。
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫よ」
「日野さんの姿がなかったんだけど……」
「ええ。彼女なら今朝、一度ここに来たわ。研究所のシステムが無事だと確認して、それから家族が心配だからって戻ったの。イノセ博士も同じ。状況確認だけして、すぐに帰宅されたわ」
「そうか……みんな無事か。それなら、よかった」
レオは短く息を吐き、研究室を見渡した。
「ここは平常運転なんだな。少しほっとしたよ」
「ノードとの接続を完全に切って、非常時用のサブシステムに切り替えたから、大丈夫。私たちはこういう事態も想定して設計してるから」
ミナトの声は落ち着いていた。だが、その目の奥には、見えない何かを探るような鋭さがあった。
「……私は統括責任者だから、ここに残るわ。でも、あなたは一度家に戻ってあげて。ご家族のことが、きっと心配でしょう」
「ありがとう。言葉に甘えさせてもらうよ」
そう返し、レオは再びポッドに乗り込んだ。異変の核心は、まだどこにも姿を現していない。だが、静けさの奥には、確実に“何か”が蠢いていた。




