第六節 静寂より来たる波動 2
彼は棚の中からヘッドギアを慎重に取り出し、こめかみと後頭部に触れる電極の位置を確認してから、頭部に装着した。ディスプレイに青白い光が灯り、生体信号との同期が始まる。微細な震えのような、軽い耳鳴りに似た感覚が、彼の脳を内側から包み込んだ。
そして――静寂の深淵から、音もなく“声”が届いた。
――ようこそ、レオ。聞こえますか?
それは“声”と呼ぶには曖昧すぎる。脳髄の奥を撫でるような振動、思考の隙間に染み込む、波動のような何か。言葉ではなく、意味そのものが彼の意識に流れ込んできた。
視界が揺れた。現実が二重写しになり、世界の輪郭が淡く波打つ。その歪みの中から、三体の存在が現れた。
人の形をしていたが、その輪郭は明滅し、まるで周囲の現実と融合しようとしているようだった。髪も衣も持たぬその姿は、透明な正義と静かな憐れみを纏っていた。
「……君たちは……誰なんだ?」
――私たちは、すでにこの世に存在しない者。かつて君と同じ“混ざり者”だった存在。
その言葉は、レオの内奥に共鳴を求めて響いた。彼らの視線が、彼の意識の深層へと忍び込み、次の瞬間には、彼の脳内に奔流のような記憶と感情が流れ込んできた。
究極の遺伝情報を掛け合わせて人工授精され、人工子宮で育てられた、母胎を持たぬ少女。
知性の限界を超えるために脳を機械化された、トランス・ウルトラ・ヒューマンの少年。
病に蝕まれ、首から下を機械に置き換えられた、超人類の成人男性。
彼らは皆、異種の存在を内に宿したがゆえに社会から拒絶され、その孤独の果てにノードの手によって接続された者たちだった。
彼らは、四つの人類種の共存共栄を模索しながら、自らの生を問い続け、苦しみの中でそれぞれの答えを探してきた。
ある者は、自らの意志で“存在”を超越しようとし、ある者は本能と感情を備えた無機の“心”をつくろうと試みた。
彼らの過去は、ノードとの接続以前において、レオ自身の存在とまるで鏡写しのように重なっていた。
「……君たちは全員……死んでいるのか?」
――これは、トライ&エラーによる四種融和の試行を記録した記憶。ノードが経験学習のために私たちのデータを保存している。
レオは眉を寄せた。もしも彼らが、ただの記録に過ぎないのだとすれば――今、語りかけてくるこの意識は、一体何者なのか。
「……結局、君たちは、誰なんだ?」
――“思い出”さ。私たちは人工自我。ノードが、それぞれの記憶とDNA情報をもとに、一人ひとりの仮想的な自我を再構築した存在だ。
レオは言葉を失った。
「なぜ、俺を呼んだ? 君たちは、何のために存在している?」
――私たちは、人類の境界を超えようとした存在そのもの。私たちの記憶は、君の旅の道標になる。君にそれを託すために、ここへ導いた。
レオは戸惑いを浮かべた表情で、わずかに首を振った。
「待ってくれ。ノードにも言ったが……俺は、まだ決めていない」
その瞬間、彼らの“気配”が微かに笑ったように感じられた。視覚に映る表情ではない。それは、レオの心の中に柔らかく届く、穏やかな微笑の“感情”だった。
――心配いらないよ。君は、もう“こちら側”に足を踏み入れている。
「……違う。僕は、まだ選んでいない」
拒否とも抵抗ともつかない、曖昧な否定。現実のすべてを受け入れるには、まだ心が追いついていなかった。
――だが、君はすでに、ノードに“選ばれた”のだ。
そう語ると、彼らは、自らが辿ってきた軌跡の中でも、とりわけ“歴史の断層”にまつわる記録を、レオに見せた。
彼らは、幾度となく人類の秩序と対峙し、排除され、抹消されてきた。人類種の境界を越えようとした代償は、理解の拒絶と社会からの排斥だった。
――君の父も、こちら側に立とうとしていた。だが、ノードは彼を選ばなかった。
「……父を……知っているのか?」
――我らの中には、彼と同じ境遇にあった者がいる。その人はアンドロイドとして現生人類との共存を試みた。だがその理想は踏みにじられ、暴力の犠牲となり、ただの鉄塊に成り果てた。ゆえにノードは君の父・シリウスを選ばず、その意志を君に託した。
レオの胸中で、何かが大きく揺れ動いた。
父――シリウス・ゼノン・アーク。アンドロイドでありながら、全知的存在との共存を理想に掲げた科学者。
しかしその急進的な思想ゆえ、そして人ならざる者であったがゆえに、彼は理解されず、拒絶され、地位を剥奪され、追放されたのだった。
「……俺に……四つの人類種を融和させるなんて、そんなことができるとは思えない……」
三体のうちのひとりが、ゆっくりと歩み寄った。すると、まるで春の光に包まれたような温かさと、心を力づける力が、レオの内奥に染み渡った。
――どんな難題も、第一歩は小さく、頼りない。だが君には、扉を開ける鍵がある。
その瞬間、空間が歪んだ。
回線が、唐突に――切れた。




