第六節 静寂より来たる波動 1
七彩市での支援活動を終えたレオは、やるせなさを胸に抱えたまま、自宅に向かう自律移動ポッドに身を委ねていた。
窓の外には、黄昏に染まり始めた都市の輪郭が流れてゆく。空は褪せたグレーで、低層の建造物の屋上にはドローンの着陸灯が瞬いていた。人類の大多数が機械に労働を委ねたこの時代、都市は音もなく、機械の精密な呼吸音だけを響かせている。
レオは、無言のまま背もたれに頭を預けた。支援活動の現場では、異なる人類種が互いを断罪し、罵り合う悲しい光景だった。胸の内に沈殿した感情が何だったのか、自分でも掬い上げることはできなかった。ただ、確かなのは、冷たいものが心の底で静かに揺れていたことだけだった。
そんな時だった。
――大川戸レオ、聞こえますか?
耳の奥に、どこか冷たく、それでいて親しげな声が響いた。男女の区別もつかず、年齢の気配すら掴めない、電子的な響き。明瞭なのに、曖昧。レオは驚いて周囲を見渡した。だが、無人のポッド内には自分一人しかおらず、外から声が聞こえる構造ではない。
「……誰だ?」
声に出したが、返答はない。幻聴か? ストレスによる錯覚か? レオは目を閉じ、額に指を当てた。
――V2K(Voice to Skull)で音声を送っているだけだから、幻聴ではないですよ。帰宅したら、ヘッドギアを装着してください。そうすれば、わかります。
心の内に直接響くその声は、先ほどよりもさらに明瞭に、まるで意識の深部を正確に捉えてきたかのように語りかけてきた。
「……お前は誰なんだ?」
思考の中で問いかける。しかし今度は、声は返ってこなかった。
ポッドはやがて、愛知湾岸第七管理区に到着した。高層建築群が鋭利な線を描きながら夜の闇に沈み始め、空にはわずかな星が、かろうじて霞の間から覗いていた。
レオは、自宅のある高層マンションの七十階にたどり着いた。エレベーターの扉が開き、廊下を歩いて玄関を生体認証で開ける。
リビングには誰の声もなかった。母は今日も帰っていない。研究機関での仕事が長引いているのだろう。
父、シリウスがひとり、ソファに腰を下ろしていた。膝にかけた毛布と、手元の文庫本。その光景は、時が静止したかのような静けさをたたえていた。
「おかえり、レオ」
「ただいま。父さん、調子はどう?」
「悪くはない。関節部の感圧センサーが鈍ってきているが。明後日、また病院に行くつもりだ」
「……無理しないで。母さんに言って、スケジュール調整してもらえばいい」
「ありがとう。支援活動は、あんなことがあった場所だから、精神的に厳しかっただろう。食事はきちんと取ったか?」
レオは小さく笑い、肩をすくめた。父の言葉は人間そのものだった。いや、人間以上に、真っすぐに、温かく響く。
「ああ。ちゃんと食べた。少し横になるよ。……また後で」
レオは短く言い、部屋へと足を運んだ。ドアが静かに閉まると、外の世界と隔絶された密室が、彼を迎えた。
ベッドの横に置かれた収納棚には、数週間前に支給されたまま手つかずだった認知拡張ヘッドギアがしまわれていた。それは、脳波と神経活動の双方向通信に加え、短期的な意識共有や夢想の可視化、さらにはクラウドへの記憶転送も可能な多機能型――次世代仕様の「E.E.G.インターフェース・ユニット」だった。
この種の装置は、すでに研究現場では標準となっていたが、一般市民の使用には慎重論も根強く、支給された市民の多くが実際には未使用のままだという。レオもまた、それに触れることをためらっていた一人だった。
だが、あの声。
――ヘッドギアを装着して欲しい。そうすれば、わかる。
レオは一瞬、ためらった。しかし、その迷いは長くは続かなかった。
あの“声”がただの幻聴であるなら、それを確かめればいい。だがもし、あれが本物の“何か”であるのなら……見過ごすわけにはいかなかった。




