第一節 選別された日常 3
かつて漁港と工業地帯が混在していた湾岸沿いの埋立地に立地し、灰銀色の海風に晒されながらも、その施設群は未来的な静けさと合理性に包まれ、巨大なガラスドームや湾曲したチタン合金の壁面が、海と空とを幾何学的に切り分ける。
ここがレオの転職先・愛知湾岸中央水産研究所だ。同研究所は〈エリュシオン・ノード〉と呼ばれる研究都市の中にある。
<エリュシオン・ノード>とは単なる都市名ではない。それは、都市を構成する研究機関群、行政施設、統合AIシステムが、互いに有機的に結びつき、一つの知性体のように機能するネットワーク複合体の総称だ。
この都市において、各研究機関や行政組織は名目上、独立している。しかし、必要とあらば、瞬時に連携し、情報を共有し、命令系統を統合する。その背後には、全体を監視・制御する**統括AI〈ミューズ〉**の存在がある。
つまり、〈エリュシオン・ノード〉とは、都市そのものの構造であり、政府が意図的に構築した“巨大な頭脳”でもあるのだ。
さらに言えば、この研究都市の中心部にそびえる中央研究施設そのものもまた〈エリュシオン・ノード〉と呼ばれている。名は、都市全体の象徴でもあり、核心でもある。
研究所の自動ゲートが静かに開くと、白銀に輝く建築が彼の視界を満たした。無機質な幾何構造のなかに、海洋を模した巨大な人工水槽が点在している。湾岸都市らしい、未来的で洗練された施設。ここで、レオは新たな人工水産物の研究開発に携わることになっていた。
指定された職員用通用口から建物内に入ると、白い壁面と照明の反射がまぶしい無人の通路が続いていた。その途中で、彼は一人の女性とすれ違った。白衣を着た、背の高い、どこか涼やかな印象を漂わせる研究者だった。鋭い目が一瞬だけレオを捉えたが、何も言わずにそのまま通り過ぎていった。
その視線に、レオは胸の奥でかすかなざわめきを覚えた。偶然だったのか、それとも意図的なものだったのか。判断はつかない。ただ、その目が、強く印象に残った。
通路の先の自動ドアが開き、レオはエントランスホールへと足を踏み入れた。ひんやりとした冷気と静寂が支配する空間には、無機質な白が広がっている。壁面にはいくつもの液晶パネルが淡く発光しながら、所内のフロア構成や人員配置を映し出していた。
だが、彼の意識は、先ほどすれ違った女性の姿に引きずられていた。すらりとした体躯に纏われた白衣、切り揃えられた前髪と冷ややかな眼差し。その一瞬の邂逅が、妙に胸に引っかかっていた。
ふと、エントランスの脇に設けられた職員登録端末が彼の名前を呼んだ。
「大川戸レオ。初出勤を確認。案内役を呼び出しますか?」
「……あ、はい。お願いします」
数秒後、エレベーター前から一人の小柄な女性が現れた。明るい表情を浮かべたその人物は、白衣の裾をひるがえしながら、手を振って近づいてくる。
「はじめまして、大川戸さん。あなたの配属先、第二研究ブロック・人工水生生命体部門のアシスタントを務める、日野ひかりです」
レオは軽く会釈しながらも、まだ気持ちの一部が先ほどの女性に引きずられていた。
「よろしくお願いします、日野さん。あの……さっき、エントランスですれ違った方、どなたか分かりますか? 白衣を着ていて、長身で、鋭い目の……」
「――ああ、たぶんそれ、篁ミナト主任研究員だと思います」
「俺と同年代くらいに見えたけど、主任研究員なの……?」
「そう。私たちの研究部門の統括責任者でもあるんだよ。人工水棲知性体――いわゆる"ニューアクア・インテリジェンス"開発の第一人者よ。超人類でもなく、機械人類でもない、純粋な現生人類なのに、あの人は国際的な学会でも名前が通ってる」
レオは軽く目を見開いた。
「現生人類……?」
「信じられないでしょ。でも本当なの。超演算補助なしで設計図面を引ける天才。過去に一度、ヒューマン・フューチャリズム連盟からスカウトされて断ったって噂もあるくらい」
日野の声には、敬意とわずかな畏怖が入り混じっていた。
その言葉を聞いたとき、レオの脳裏に、先ほどすれ違った女性の姿がふと浮かんだ。
白衣を翻して通り過ぎた、あの瞬間の無言の視線――
ただの無関心ではなかった気がする。どこか、自分という存在を測るような、探るような目だった。心の中を深く覗きこまれる……そんな感覚にさえ囚われた。
偶然かもしれない。だが、もし彼女が、日野の言うような、群を抜いた観察力や直感を持つ人物なのだとすれば――
レオの正体、その内奥にある“普通ではない何か”に、何らかの形で気づいていたのかもしれない。
(篁ミナト……)
彼はその名を、言葉には出さず、ゆっくりと口の中で転がした。