第二節 視界を越えて― 4
翌日、ちょうど昼の業務が一段落したころだった。
レオはいつものように、一人で席を立つ。手にしていたタブレットを無言で閉じ、白衣の裾を揺らして、足早に研究ブロックの奥へと消えていく。その姿に、誰も声をかけようとはしなかった。
相変わらず、研究所内には、ミナトや日野、ケイ・イノセ等を除いて、同僚と呼べる人間も、気さくに言葉を交わす相手がいない。みなし超人類という肩書きは、目には見えない壁となって、周囲との距離を隔てていた。
それに加えて昨日から始まった所内での異変――警備体制強化、システム不安定化、情報制限強化、〈エリュシオン・ノード〉とのリンク縮小傾向、そして他の研究員らの態度が更によそよそしくなったこと……。
彼の所内での孤立は、より一層深まった。
レオには、いつも決まった時間に談話室へ向かう習慣があった。昼食を取らずに缶コーヒーだけで済ませることある。その背中には、何かを抱え込んでいるような影が、ほんの少しだけ差している。
レオの様子がいきなりおかしくなったことに、ミナトは気づいていた。気になっていた彼女は、小さく息を整え、白衣の裾を払いながら歩き出す。
研究ブロックの通路を曲がり、レオのあとを辿るようにして談話室の前までたどり着いた。そして、ドアに手をかける寸前で、その背中に呼びかける。
「ねえ、ちょっと、時間ある?」
談話室のドアが閉まり、外の喧騒が遠ざかると、そこには妙に静かな空間が広がっていた。
白いカウンターとシルバーの自販機、冷却音だけが響くなか、ミナトは缶コーヒーを二つ取り出し、ひとつをレオに差し出した。
「あなた、何か悩みがあるんじゃないの? 最近、いつも考え込んでいるような顔をしているし、無理しているというか、様子が以前と全然違う」
ミナトはレオの顔を見つめながら、静かに言葉を重ねた。
「昨日から、ずっと考え込んでるように見える。無理をしているというか、前と違うって、誰が見ても分かるよ。研究のことだけじゃない、何か……心の奥で、ずっと引っかかってるものがあるんでしょう?」
レオはすぐには答えなかった。黙ったまま缶を手に取り、プルタブに指をかけながら目を伏せた。手の中のアルミが微かに震え、掌の温度と缶の冷たさが際立っていた。
ノードからの問いの答えは出せていなかった。
けれど、少なくとも、複雑な出自を持ち、苦しんできた過去を抱えるミナトが相手なら、心の奥底に沈めていた真相を打ち明けてもいい――そう思えるだけの確信が、今この瞬間、胸の内に静かに灯り始めていた。
レオは缶コーヒーを手の中で転がすようにしながら、沈黙を挟んだ。微かな金属音が、静まり返った談話室に広がる冷却音の中に溶けていく。やがて彼は、缶の縁に唇を当てるでもなく、ぽつりと口を開いた。
「信じて貰えないかもしれないが……俺は、ノードと接続した」
ミナトは、眉一つ動かさずに彼の言葉を受け止めた。否定も肯定もしない。ただ、耳を澄ますようにして静かに待っている。
「ノードが言ったんだ。俺は、四つの人種を繋ぐ架け橋に選ばれた、と」
レオの視線は自販機の冷たい金属の面に落ち、そこに映る自分の姿をどこか他人のように見つめていた。
「ノードと接続する前の晩……父と母が、教えてくれた。二人はかつて、シリウス計画というものに参加していたらしい。そして――その計画の中で、俺が生まれたんだ」
そこでようやく、ミナトは静かに口を開いた。
「あなたは、そのことを知っていたの?」
その問いに、レオはわずかに顔をしかめ、深くうなだれるようにして答えた。
「……父と母は、昔から、俺はアンドロイドの父と現生人類の母から生まれた“特別な存在”だって、そう言い聞かせてきた。四つの人類の橋渡しになれるかもしれないって。でも――“計画”のことは、何も知らなかった。シリウス計画のことは……」
彼の声がかすかに震えていた。それは怒りでも悲しみでもなく、自分が何者なのかを知ることへの、恐怖に似た感情だった。
「あなたは、どうしたいの?」
ミナトの問いは、決して圧力ではなかった。ただ、レオの内側にある混乱に、優しく手を差し伸べるような声音だった。
「……わからない」
レオは苦しげに言葉を絞り出した。答えのない問いに苛まれ、進むべき道が霞んで見えなくなっていた。
「……アンドロイドが父親である以上、DNAそのものが人工的に設計されたものなのは、否定できない。外見や性格を模して遺伝情報を組み合わせて、人工精子を作成し、それを現生人類である母親の卵子と受精させる……それで、あなたは生まれた」
ミナトの言葉は淡々としていたが、その内側には確かな温度があった。
「だから、あなたは“機械的”な存在であると同時に、確かに“人間”でもある。現生人類の母から生まれ、遺伝子的には、完全に人類として認識される存在。でも、同時にどこにも属し切れない。誰かがあなたを現生人類と呼べばそうなるし、アンドロイドに近いと判断されれば、別のカテゴリに置かれる。あなたは、思想によって見方が変わる存在なの」
ミナトはレオの目を正面から見据えた。
「言葉として正しいかどうかは分からないけれど……あなたは“生粋の境界人”だと言える」
「……全く嬉しくないよ」
レオはうんざりしたように答え、視線を逸らした。その声には、苦笑にも似た皮肉が滲んでいた。ミナトは、その表情にひるむことなく、まっすぐに言葉を重ねた。
「……あなたにとっては、とても嫌なことだろうし、不本意だとも思う。自分で選んだわけじゃない、そう思って当然。でもね、レオ。あなたのような境遇の人にしか、できないことってあると、私は思うの」
「そんなこと……本当にあると思うか?」
レオの声には、諦めと怒りとが入り混じっていた。彼は本気で問い返したのではない。ただ、自分を納得させられない思いが、言葉になって滲み出た。
ミナトは、わずかに笑みを浮かべて、はっきりと言った。
「ええ。あると思う。ノードは、あなたを選んだ。それには、理由がある。少なくとも、あなたにはその“資質”があると、あのノードが認めたということ。ならば、あなたは、自分の責任を果たすべきだと思う」
レオは、そのまま缶を机に置いた。未開封のまま、銀色の表面に指の跡だけが残っていた。静寂の中で、彼の息だけが、少しずつ整っていく。
それは、これから語るかもしれない真実に向き合うための、小さな準備のようだった。
 




