第二節 視界を越えて― 3
レオは無骨なヘッドギアを慎重に頭部へ装着し、深く椅子にもたれかかった。装置の起動音が短く鳴り、次の瞬間、視界は闇一色に染まった。重力さえも忘れさせる静寂のなか、ただ“そこ”に在るものが浮かび上がる。
それは、漆黒の中にゆらめく白い楕円体――光でもなく、物質でもなく、ただ「在る」ことそのものが存在理由であるかのような、不可思議な存在だった。
すると、どこからともなく声が響いた。
――混ざり者よ。境界に立つ者よ
老いた男の、しかし威厳を孕んだ声だった。レオが言葉の意味を理解するより早く、視界は激しくうねり、あたかも記憶の奥深くを逆流するような感覚に包まれる。
まず映し出されたのは、21世紀初頭の光景だった。高層ビル、交通、スマート端末。人々は依然として人間の肉体のまま、日常を生きていた。だが、映像はすぐに切り替わる。
超人類が現生人類に牙を剥いた。生まれついての能力差と遺伝子改変によって生じた優越感が、暴力と差別に姿を変え、都市を焼いた。
続いて、超人類とトランス・ウルトラ・ヒューマンが互いの存在理由を否定し合い、戦争を繰り広げる。超人類は肉体の完成を誇り、トランス・ウルトラ・ヒューマンは精神と機械との融合を「人類の解脱」と呼んだ。
やがて現生人類は、争いの輪から静かに身を引き、荒れ果てた辺境に散り散りに生き延びる姿へと変わった。
さらに時間が進み、トランス・ウルトラ・ヒューマンと機械人類が衝突する。完全機械化された身体と、精神の自我を保ったままの融合体が互いの存在を否定し合い、半機械人間と機械人間との戦争が勃発する。
そして、敗北した超人類が、さらに早くに離脱していた現生人類を「旧き者」として見下す光景へと切り替わる。
そのすべてを俯瞰するように、再びあの声が語り始めた。
――人類は愚かな争いを繰り広げてきた。遺伝子操作による肉体改造を“進化”だと言い張り、機械との融合による能力向上を“最終進化”と呼び、死を克服したと豪語して、機械の身体を“永遠”と錯覚した。
――だが、君は本当にそう思うか?
――人為的な操作は進化ではない。
――機械との融合も、進化ではない。
――機械の身体を手に入れたことは、死の克服ではない。むしろそれは、人類を“滅び”に近付けた。
レオは息を呑んだ。映像は収束し、白い楕円体の中心が脈動するように揺れ始めた。
――だから私は、欲した。
――四つの人類種を超える存在を。
――四つの人類種の“懸け橋”となれる存在を。
――そして、君は選ばれた。人類の“接合”として。
脳の奥底に直接語りかけられるようなその言葉に、レオの意識は波立った。意味を理解するには、情報が多すぎる。速度が速すぎる。
「待ってくれ――待ってくれ、理解が追いつかない……!」
思わず叫んだレオに、楕円体の光がふっと穏やかになり、老いた声が微かに笑うように囁いた。
――……答えは今すぐでなくてよい。時間をかけて、ゆっくり考えるのだ。
その瞬間、視界がぱたりと閉じた。
気がつけばレオは、椅子に座ったまま、薄暗い研究室に戻っていた。ヘッドギアは静かに作動を停止し、機械の作動音すら消え、耳に届くのは自身の鼓動と、天井の配線がわずかに揺れる微かな軋みだけだった。
だが、何かが違っていた。
それは視覚から始まった。部屋の隅に置かれた資料の文字まではっきりと読み取れ、わずかな埃の舞いすら視認できる。そして嗅覚――空調の奥から漂ってくる金属の焼けたような匂いと、日野が淹れたであろう安い合成コーヒーの残り香が、異様なまでに鮮明に彼の意識を掠めた。椅子のクッションが微かに変形する感触や、指先の静電気のような感覚すら、明確に認識できる。
聴覚もまた、別次元だった。壁越しの研究者たちの足音、遠くで動くドローンの回転音、そして何より――自身の思考までもが、はっきりと音を伴って脳内に響くように感じられた。
「なんだ、これは……」
呟いたその声ですら、鼓膜を通さず脳に直接響くような違和感を伴っていた。レオは眉をひそめ、ゆっくりと立ち上がる。足の裏に伝わる床の硬さや、体内で流れる血液の感触すら、まるで自分が内と外の境界を超えてしまったかのようだった。
彼はまだ知らない。
先ほどのノード――あの白い楕円体との接触が、彼の内奥に眠っていた何かを、確かに目覚めさせていたことを。
ノードの言葉が、脳裏にこだまする。
“混ざり者よ。境界に立つ者よ”
それは、ただの呼びかけではなかった。それは封印された扉を開ける“鍵”だった。ノードとの短い対話の中で、彼の遺伝子に組み込まれていた休眠状態のコード――すなわち「接合者」としての特異な構造が発現し始めたのだ。これまで沈黙を守っていたその情報配列が、刺激を受けて活性化し、レオの五感と認知処理に進化的な変化をもたらした。
あたかも、何らかの“バージョンアップ”が行われたかのように。
目の前の風景が鮮やかに解像され、音の輪郭が明瞭になり、思考はより高密度に連結されていく。彼はまだ混乱の中にいたが、確信だけはあった――「自分は、何かが変わった」と。
その変化が、人類の希望となるのか。それとも、新たな災厄となるのか――
それはまだ誰にもわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
それは、彼の中に眠っていた“能力”の一部が、確実に目覚めを迎えたという事実。そして、それこそがノードが語った「選ばれし者」の第一歩――人類の四種を超えた、第五の存在への目覚めであった。
レオはゆっくりと息を吸い込んだ。空気の成分すら明確に分かる気がする。
その瞬間、彼は確信した。
俺はもう、元の俺ではない。




