第二節 視界を越えて― 1
レオの名を記録するデータベースは、三つの異なる人類種に関する監視ファイルにまたがって存在していた。いずれも戸籍や国籍といった公式な登録ではなく、統一政府情報統合庁によって極秘に保管された「存在認証ファイル」に基づくものだった。
そこには、「現生人類の疑いがある者」「みなし超人類」「超人類の疑いがある者」という、曖昧で不安定な分類のもと、彼の情報が別々に記録されていた。
それは、レオの身元が単一のカテゴリには収まりきらないことを示す、冷たい証拠だった。
母は現生人類、父はアンドロイド。だが、彼はその中間に留まっているわけではなかった。むしろ、どこにも属していなかった――それが、レオ自身に常に突きつけられた「問い」だった。
父シリウスと母真凛から「シリウス計画」の真実を告げられた翌朝、レオはいつものように愛知湾岸中央水深研究所へ出勤した。だが、研究棟の自動ゲートを通過した瞬間から、何かが微かに――しかし確実に――いつもとは違っていると感じた。
エントランスロビーでは、警備ドローンの配置が増えていた。普段は入口横の警備ポートで静かに待機しているはずの機体が、天井のレールに沿って滑るように巡回しており、その赤外センサーの視線がまるでこちらを追ってくるかのようだった。
研究室へと続く廊下を歩く間、何人かの同僚やスタッフたちとすれ違ったが、挨拶を交わした彼らの声はどこか上擦っており、目も合わそうとしなかった。中には目の端でレオを見て、ひそかに視線を交わし合いながら立ち去る者さえいた。
研究室に入ると、アシスタントの一人である日野が端末の前に座っていた。彼女の手元のスクリーンにはいつも以上に複雑な数値の流れが走っていたが、その視線は明らかに落ち着きを欠いていた。
「日野、何かあったのか?」
レオが声をかけると、日野は小さく肩を跳ねさせた。
「……いえ、正確には、わかりません。ただ、朝からなんだかみんなそわそわしてて。上層部が何か指示を出したとか、情報が降りてきてるって噂で……雰囲気が変なんです」
彼女の声には、戸惑いと警戒の色が混ざっていた。
レオは自分の作業ターミナルに向かい、いつものルーチンで深海探査データの解析を開始しようとした。だが、画面に表示されたインターフェースには見慣れないフィルターが幾層にもかかっていた。普段は即座にアクセスできるはずの観測記録の一部に、閲覧制限の警告アイコンが浮かび、アクセス許可コードの入力を求めていた。
さらに不可解なことに、自分が扱っていたプロジェクトの分析優先順位が、ログに記録された操作もないまま突然切り替わっていた。最優先にしていた〈深海熱水鉱床の地殻反応モニタリング〉はリストの下段に追いやられ、代わりに〈遺伝子組成異常サンプルの再解析〉という見覚えのないテーマが上位に浮かび上がっている。
これは単なるバグではない。明らかに、上層部の手による“介入”だ――そう直感したレオは、即座に自身の指導担当であるケイ・イノセへ連絡を取った。だが、ケイも困惑した声で「俺も聞いてないんだ。こちらの管理系統から変更命令が出された形跡はない」と言うばかりで、状況を把握していないようだった。
違和感と不信感が募っていく。レオは日野に「ちょっと出る」とだけ声をかけると、携帯端末を開いてミナトに連絡を入れた。だが、呼び出し音が空しく繰り返されるだけで、応答はなかった。
重い足取りでミナトの居室へと向かう途中、研究棟の廊下で、数名の職員たちがひそひそと会話を交わしているのが聞こえた。その中には、断片的ではあったが、「指令変更」「上層部からの命令」「政体との協議」などという言葉が混ざっていた。
その言葉の破片が、レオの胸の奥を冷たく締めつけた。
何かが起きている。いや――すでに、何かが「始まって」しまっているのかもしれない。
昨日知った真実。自分の出自、そして〈ノード〉の干渉。あれは単なる家族内の問題でも、個人のアイデンティティにとどまる話でもなかったのではないか。
レオは、得体の知れない“変化”の胎動を、無音の地鳴りのように感じていた。




