第四節 沈黙の言語 5
レオは再び〈エリュシオン・ノード〉へと足を踏み入れた。
その瞬間、皮膚をかすめた空気の感触に違和感を覚えた。湿度も温度も、どこか人工的で、呼吸のたびに肺の奥まで浸透してくるような錯覚を覚える。研究所全体が半ば閉鎖系の高度統合環境下にあり、人間の呼吸ひとつすらアルゴリズムで最適化されている。ここは、自然から切り離された、制御のための空間だ。
迎えに出てきたのは、〈エリュシオン・ノード〉漏洩対策局の職員だった。
トランス・ウルトラ・ヒューマン特有の均整の取れた身体、内蔵された生体ナノ補助知覚機構が仄かに光を帯び、完全無表情でレオを見つめていた。
「こちらへどうぞ」
硬質な声に促され、レオは案内されるまま、施設の奥へと進んでいった。曲がりくねった無機質な廊下には、侵入防止用の相転移センサーが幾重にも重ねられ、電子の眼が終始こちらを監視している。
「ミナトさんは、すでに別室で事情を聴かれています」
歩きながら、職員はレオに向かって事務的に告げた。
「現在、愛知湾岸中央水産研究所でのあなたの研究内容について、説明に協力していただいております」
やがてレオは、無人の面談室のような小部屋に通された。無反響処理された壁と、中央に据えられた無機質なテーブルと椅子。感情の一切を拒絶するような冷たさが部屋の隅々に漂っていた。
しばらくして、先ほどの職員がレポート端末を手に戻ってきた。椅子に座ると同時に、まるで予め録音されたかのように、出来事の顛末を淡々と語り始めた。
「……まず最初に、あなたに確認していただきたい情報があります」
彼は淡々とした口調を崩さぬまま、報告を読み上げた。
「昨晩、愛知湾岸中央水産研究所の地下サーバー棟、ならびに当〈エリュシオン・ノード〉第七地下層に位置する独立記録保存サーバ群に対して、外部ネットワークからの不正な侵入試行が検知されました。侵入に使用された接続プロトコル内に、〈エリュシオン・ノード〉にて過去に登録されたDNA構造解析パターンが含まれていたことが確認されております。その配列は、あなたの旧記録――すなわち、特任ノード研究員として登録されていた生体認証情報と一致しました」
レオは黙って聞き続けた。
説明はさらに続く。
「アクセスが試みられたデータは二点あります。一つは、あなたが現在従事している研究に関連するもので、愛知湾岸中央水産研究所地下サーバー棟に保存されていたもの。もう一つは、〈エリュシオン・ノード〉第七地下層の独立記録保存サーバ群に残された、あなたの過去の研究に関する断片的な記録です」
つまり――どちらも、レオ自身が深く関与した研究だった。
その説明を聞いた瞬間、レオの脳裏に、未明の出来事が蘇った。誰もが眠りに沈む時間帯だった。研究室の端末に、唐突に一つの情報パケットが届いた。それは、〈エリュシオン・ノード〉からの断片的なデータだった。
形式としては通常の内部通信に近く、明確な発信元も特異なプロトコルも確認されていなかった。直後に行われたセキュリティ担当部署の調査でも、通信プロトコルには外部からのアクセス特有の兆候は見られなかった。ログ上はすべて滑らかで、異常なパケット遅延や不審なアクセス履歴も残っていなかった。
報告書を読んだレオは、やはりあの夜に届いた情報が、単なるバグや偶発的なフローではないことを確信した。それは、盗み取られるべき何かではなかった。むしろ、誰か――あるいは、何か――が、彼に向けて意図的に届けようとしたもののように思えた。
だからこそ、レオは今回の事情聴取の中で、その出来事に言及されるものとばかり思っていた。〈エリュシオン・ノード〉の中枢がそれを感知していないはずがない、とすら考えていたのだ。
だが――職員は、最後までその「未明の出来事」について一言も触れなかった。
違和感が胸をよぎった。
もし、あれが外部からの侵入だったのなら、今ここで取り上げられて然るべきだ。だが、それが語られないということは――〈ノード〉の防壁ですら、それを“侵入”とは判断していなかった可能性がある。
では、あのデータは一体、どこから、どのような経路で、何のためにレオの端末へと届いたのか。
(……あれは、誰かが盗もうとしたデータじゃない)
レオは息を詰め、心の奥でそう確信した。
あれは、外部から押し入ってきた情報ではなかった。むしろ、あらかじめ〈ミューズ〉――〈エリュシオン・ノード〉のメインフレームの中に潜んでいた何かが、自ら輪郭を帯びて姿を現した、そんな感覚だった。沈黙の奥にひそんでいた意志が、自分にだけ向かって手を伸ばそうとしている。具体的な意味や構造は読み取れず、それがどんなデータなのかもまったくわからない。それでもレオには、あれが偶発的な通信ではなかったことだけは、直感的に理解できた。
言葉も、明示されたメッセージもなかった。ただ、確かに「こちらを見ている」という感触が、そこには残っていた。
(これは――何か、伝えようとしているのか?)
だが、口にすることはなかった。目の前の職員にあの出来事を語るには、あまりにも時期尚早だった。曖昧だから、ではない。内容が理解できないなりに、レオは本能的に察していたのだ――あれは、他人に漏らしてはいけないものなのだと。
ミューズは単なる情報処理システムではない。知性を持ち、感情を持ち、自律した意志で行動する存在。そんな彼女が、統一政府でも研究機関でもなく、自分個人を選んで何かを送ってきた。それだけで十分すぎるほど、意味は重かった。
だからこそ、軽々しく他人に話すわけにはいかなかった。
まだ何も解明されてはいない。けれど、あの瞬間、ミューズは確かに――この自分だけに向けて、何かを伝えようとしていたのだ。その確信だけが、沈黙の中にしんと残っていた。




