第四節 沈黙の言語 3
湾岸都市の朝は、潮の匂いと電子音に満ちていた。遠くに浮かぶ養殖ドームの影が、やや霞んだ光の中にぼんやりと揺れている。
愛知湾岸中央水産研究所の庁舎では、レオがいつものように午前の報告会議を終え、実験区画へと歩を進めていた。
だが、何かが微かに違っていた。
エレベーターホールに立つ〈エリュシオン・ノード〉職員らしき人物。研究所に常駐することのない顔ぶれが、機器の配線点検を装いながら、あちこちのモニターを確認していた。レオは一瞬足を止めたが、声をかけることなく通り過ぎた。
――さっきのエリュシオン・ノードの件と言い、何かが起きている。
そう思った矢先だった。
研究棟東端、静音設計の応接ユニット——人目につきにくいその一角で、レオは思わぬ来訪者と対面していた。
相手は〈エリュシオン・ノード〉の研究連絡官を名乗る中年の男だった。痩身で無表情、灰色の制服の襟元には統一政府直属機関の紋章が小さく刺繍されている。目元にはごく微細な情報投影レンズが埋め込まれており、常人には視認すら困難だ。話し方も機械的な抑揚を伴っており、外見上は生身の人間であるにもかかわらず、どこかアンドロイドを思わせた。
男は戸口で名乗ることもなく、粛々と応接室へとレオを促した。
個室内の照明はやや落とされ、壁面には低反射型のデータパネルが静かに脈動している。椅子に着くと、男は懐から細長いデータ端末を取り出し、それを卓上に置いた。その表面に青白く浮かび上がったのは、〈ミューズ〉による判断を示す優先通達コードだった。
「大川戸レオ博士。時間を割いていただき感謝します」
レオは相手の目をまっすぐに見つめた。年齢不詳の、どこか生気の薄い視線が返ってくる。
「あなたが伝える内容によるかと思いますが……どうぞ」
連絡官は端末に指先を滑らせながら、淡々と告げた。
「本日、10時26分。愛知湾岸中央水産研究所地下サーバー棟と〈エリュシオン・ノード〉第七地下層に位置する独立記録保存サーバ群に対し、外部ネットワークからの不正な侵入試行が検知されました」
「侵入試行……それが、俺に何の関係があるんですか?」
「接続プロトコル内に、かつて〈エリュシオン・ノード〉で管理されていたDNA構造解析パターンが使用されていました。その配列と一致したのが、あなたの旧記録です」
レオは一瞬、言葉の意味を探るように眉をひそめた。
「旧記録……つまり、俺がかつて登録していた生体認証データ、ということですか?」
頷きが返された。
「はい。研究所のアクセス権限と連動する、あなたのオリジナルDNA識別コード。第三者は、それと一致する情報で削除データの保管領域にアクセスしようとしていました」
「削除データ……まさか、あの時の……」
レオの胸中に、遠い過去の記憶が微かに蘇る。自らが書き上げた論文、幾晩も徹夜で取り組んだ実験、慎重に練り上げた遺伝子の解析モデル。そのすべてが、政府の通達によって突然中止され、〈ミューズ〉に保存していたバックアップデータも強制的に削除されたはずだった。
「その研究は――確かに中止になったはずです。政府の命令で。だから、もう誰も触れられないと……」
「表面上は、そうです。しかし削除は完全ではありませんでした。データの保管領域に残存する構造断片へ、何者かが不正なアクセスを試みた。その際に使われた鍵が、あなたのDNAと一致したのです」
レオは目を見開き、喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。
「俺のDNAそのものが、鍵に使われた……? じゃあ、誰かが――俺になりすまして……?」
「可能性は幾つか考えられますが、あなたの生体情報を何らかの手段で入手した者がいる疑いもあります。現在、アクセスコードの遡及解析を進めていますが、それには一定の時間がかかる。ゆえに、先行してあなたへの接触を指示されたのです」
レオはゆっくりと息を吐いた。背筋がひやりと冷え、喉の奥がわずかに渇く。
「つまり、俺の過去の研究に何者かが触れようとしている。そして、それが外部のネットワーク……機械人類の圏からだった、と」
「そのように認識されています」
「……了解しました。〈エリュシオン・ノード〉に同行します。だが、その前に一つ確認させてください」
「どうぞ」
「これが、機械人類側の仕業であると仮定した場合——彼らは、何のために、過去の俺の研究データを引き出そうとしているんでしょうか?」
その問いに、連絡官はわずかに眉を寄せた。反射的に視線が泳ぎ、沈黙が数秒、空気を重く染める。
「……申し訳ありません。それについては、私の権限では判断できません」
曖昧な物言いではない。明確に、「知らない」という色がそこにはあった。
「私はあくまで〈エリュシオン・ノード〉の研究連絡員としての任務で動いています。今回の通達も、〈ミューズ〉の直接指示によるものであり、背後の意図や上層の判断については一切知らされておりません」
「つまり、現場には何も降りてきていない、というわけですか」
「はい。ただ……」連絡官は言い淀み、少しだけ視線を伏せた。「今回のアクセス試行に使用されたDNA情報の相関性が、非常に高かったことは事実です。そのため、〈ミューズ〉は緊急優先レベルを設定し、通常の情報部を介さず、直接の接触と同行を求める判断を下しました」
レオは椅子からゆっくりと腰を上げた。足元から這い上がるような重さが、彼の背中を押している。
「……研究が終わって、何年も経ってるんですよ」
自分でも、なぜその言葉が口から漏れたのか分からなかった。ただ、削除という語が意味する“忘却”が、もはや過去形では済まされないという現実が、無言の圧力となって胸に迫っていた。
破棄されたデータ、閲覧すら禁止された旧記録、存在を否定された論文。それらが、なぜ今、何者かの手によって引きずり出されようとしているのか。
答えはどこにもない。ただ、薄く開きかけた棺の中で、かすかな動きを感じた気がした。死んだはずの過去が、なお脈打っている——そんな、言葉にならぬ実感だけが、胸の奥で疼いていた。




