第六節 倫理的崩壊 2
かつて古代ヨーロッパ文明の精神的中枢を成した地中海沿岸――旧ギリシャおよび旧トルコ西岸地域は、二十二世紀初頭の地殻変動と気候変動により荒廃し、やがて水没の危機に瀕した。
統一政府はこの歴史的に象徴性の高い地に目を向け、欧州文明圏の記憶を未来へと継承する場として、また人類全体の統合と再構築のための精神的象徴として、再興計画を遂行した。
その成果として生まれたのが、知性浮冠群と呼ばれる人工浮島群によって形成された超巨大都市と、沿岸に再構築された高密度神経都市圏とを融合させた新首都――ノパティトランである。
首都の名には、失われた文明の記憶を呼び覚まし、四人類種の知性が織りなす未来が、かつてない繁栄と栄華をもたらすようにという願いが込められていた。
統一政府の総本部庁舎はクラウン・アーキペラゴの中核たる主冠島に設けられ、その存在自体が機械、AIと共に歩む人類の新たな歴史の象徴とされている。
同庁舎は地上50階、地下10階以上の階層が存在するが、地下部分はすべて一般公開されておらず、機密指定されている。
地上部分は第一層(1階~10階、政府の公開部門・国際外交部門)、第二層(11階~20階、行政府機能、議会機能、執務スペース)、第三層(21階~30階、軍事中枢、AI分析演算室、特務部局)、第四層(31階~40階、高度機密区域、倫理監査局、AI制御コア)、第五層(41階~50階、最高機密封印区画)の五層構造になっていた。
第三層最上階である30階の大会議室に、全世界からクーデター軍の最高幹部らが集まってきた。
顔ぶれは、統合参謀本部議長アシュレイ・ヴォルテックス元帥、陸軍参謀総長カイ・レイヴンクラッド大将、・海軍参謀総長リアン・マレイシス大将、航空宇宙軍参謀総長ジリアン・クロフォード大将らを筆頭に、各軍参謀秘書官、各軍各地域担当参謀補佐官、AI統括参謀総長、AI戦術中枢官、サイバー戦司令官、情報部長、宇宙監視戦略室長(軌道・深宇宙監視担当)、ロジスティクス総監(兵站担当)、特務部長(特殊作戦部)ら錚々たるものであり、クーデター軍の最重要作戦を決定する為の軍最高会議であった。
各人が円卓の指定席に腰を下ろし、会議が始まったが、非常に沈痛な空気が流れていた。
各軍各地域担当参謀補佐官が受け持ち地域の戦況を報告していくが、都市防衛に失敗、基地陥落、州政府庁舎を奪還され撤退……明るい情報は何一つなく、惨憺たるものだった。
AI統括参謀総長以下、特務部長に至るまでの報告も耳を塞ぎたくなるような惨状ばかりが伝えられ、クーデターの継続は、もはやこれまでかという意見が場を支配し、まるでお通夜のようにどんよりとした静けさが漂った。
その時だった。
特務部長マコイン・トルバーエフゲニ中将が挙手し、「よろしいですか」と発言の許可を求めた。
一部の出席者は、中将風情が、と見下すような態度をあらわにした。ヴォルテックス元帥はまるで気にせず「述べたまえ」と許可した。
トルバーエフゲニ中将は立ち上がり、ぎこちなく身体をゆすり、顔を軽く動かし、両手の指を絡ませ、やや不審な挙動を取った。緊張していたのか、それとも、言い出しにくいことだったのか……。
見かねたヴォルテックス元帥が注意しようかと思ったところで、彼はようやく、口を開いた。その際、彼の喉元がぴくりと震えた。重圧か、それとも――恐怖か。どちらともつかない沈黙が、彼の両肩に重くのしかかっていた。
「仮にこの戦局を打開できる策を献じられる存在があるとすれば、自律型超戦略AI〈エンリル・コード09〉以外にないと思います」
会場がどよめいた。そして凍り付いた。
無理もない。
自律型超戦略AI〈エンリル・コード09〉――これは人類史上最も深い反省によって封印された極めて危険な存在だった。
前世期に発生した世界大戦終結のために設計されたが、倫理観を著しく欠き、大勢の死傷者の出る作戦を提示し、将来の禍根を絶つとの名目で殲滅戦を提案し、虐殺行為さえ躊躇いなく選択肢に示した。
別の複数のAIで作戦内容を検証したところ、確かに、指示した目標を完璧に達成し、そればかりか、その目標以上の成果を収めるとの予測が示された。極めて有能である点に疑いの余地はない。
ただ、発揮された最高のパフォーマンスは、与えられた情報を極めて合理的、効率的、論理的に処理し、人間の命を数字としてしか見ない結果であり、倫理・道徳・モラルの欠落した恐るべき演算装置だった。
AIにも自我を与え、五感を持たせ、人間の感覚を理解させる必要があるとの意見が出て、現在のような人格を有し人間としての感情を持ったAIが作られるようになった元凶だ。
政府に検査を命じられた科学者は、AI〈エンリル・コード09〉を『戦略的冷徹さから合理性の名の下に終末的選択肢提示し、踏み込んではならない領域に平気で跳躍する危険物の人工意識体』と評し、永久封印が妥当と進言した。
あまりの危険性から、複製が禁止されたのみならず、アクセスを試みるだけでも刑事罰に問われ、地球上の生命に対する重大な背信とされ終身刑に処される。
現在は統一政府総本部庁舎・中枢部である第五層・最高機密区画に、旧世代戦略資産として厳重に封印されている。




