第四節 沈黙の言語 1
――夢を見ていた。
それは過去なのか、未来なのか、自分自身の記憶ですらないものかもしれなかった。
白い空間。音のない部屋。壁一面に広がる有機的なモジュールディスプレイ。無数の情報が、言葉にならぬまま脳に直接流れ込んでくる。人の声ではなかった。もっと深く、もっと静かで、もっと機械的で、それでも何か温かさを含んだ“呼び声”が、彼を包み込んでいた。
――レオ。
誰かに、名前を呼ばれたような気がした。
次の瞬間、重い夢の底から引き上げられるように、彼は目を覚ました。
仮眠ブースの天井は低く、冷たい蛍光灯が静かに瞬いていた。
研究所の奥に設けられたこの仮眠スペースは、夜勤研究員のための簡素な小部屋にすぎない。
クロノメーターが午前3時48分を示していた。
仮眠に入る直前、レオは日野に研究室のモニタリングを任せ、「異常があれば連絡してくれ」と伝えていた。その不安が、まだ身体のどこかに残っていた。
夢に現れたあの空間は、かつて彼が一時期足を踏み入れた“あの場所”を思い起こさせた。
——〈エリュシオン・ノード〉上層区画、中央思考制御室。別名、〈コア・オブ・ミューズ〉。
それは研究都市〈エリュシオン・ノード〉の心臓部であり、AI〈ミューズ〉の中枢知性体が物理的に格納されている空間だった。関係者以外の立ち入りは通常不可能。
レオは学生研究員として、研究を行う為に、そこをよく訪れていた。十代の終わり頃、大学院の推薦で特例研究員として。
その後、幾つもの研究を経験したことで、新しい記憶に埋もれ、思い出されることのなくなったものだった。
だが、あの夢の中の“呼び声”は、確かに彼の中に何かを蘇らせていた。
レオはクロノメーターに目をやったあと、身を起こして白衣を羽織り、無言のまま仮眠ブースを後にした。冷え切った廊下を通って研究室に戻ると、薄暗い室内のモニタが青白く点灯していた。
日野がひとつ咳払いをしてから、控えめな声で言った。
「……レオさん。ちょっと、これ……変なんです。『エリュシオン・ノード』名義で、データが届いてて」
彼女の指差す研究室の主端末には、未開封の通信ログが表示されていた。
送信者:エリュシオン・ノード
件名:【至急:転送データ・ミューズL-β群】
添付ファイル:
【公開実験計画案(Ely-Node_2027)】
【付随:遺伝子接合体変異プロファイル】
【添付動画:1】
その名前に、レオの心臓が一拍遅れて強く跳ねた。
エリュシオン・ノード――統一政府直属の高度機密研究部門であり、現場研究員に直接コンタクトを取ることなどまずありえない。ましてや「ミューズL-β群」など、聞いたこともないファイル名だった。
「どうします?」と日野が訊ねる。
レオは無言で頷き、操作パネルに指を伸ばす。
彼は、ほんのわずかに躊躇したあと、添付された動画ファイルを開いた。
そこには、氷のような青白い光の中に浮かぶ映像が映し出されていた。深海で採取されたばかりと思われる、未知の微生物。その細胞内で自発的に光を放つ構造が、まるで呼吸するように規則的に点滅していた。
それは、単なる生理的反応には見えなかった。
それはまるで、何かの“言語”のようだった。
静寂を破るように、レオは自分の端末を手に取った。震える指先でセキュリティコードを入力し、指導担当であるケイ・イノセに通信を接続する。
しばらくの呼び出し音の後、画面にイノセの落ち着いた顔が現れた。背景は書斎のようで、仄暗い室内に古びた本棚が並んでいた。
「どうしたんだ、大川戸くん? こんな時間に連絡して来るなんて」
声は柔らかいが、微かな緊張が混じっていた。
レオは一息つき、事態を整理しながら口を開く。
「それが……エリュシオン・ノードの名前で、うちの研究室にデータが送られてきて。添付された動画ファイルを開いたんですが、わけがわからなくて」
イノセの表情が曇る。
「それは本当なのか?」
「はい、間違いありません」
短い沈黙が流れたのち、イノセは眉間に皺を寄せ、低く呟いた。
「……だとしたら、私の手には負えん。篁主任研究員にも連絡を入れて、今すぐそっちに向かう。少し待っていてくれ」
通信が切れると、室内に静けさが戻った。レオは深く息を吐き、背後にいた日野と視線を交わす。日野は黙って頷き、モニタの前に椅子を引き寄せて座り込んだ。




