第三節 裂け目の路地 差別の現場――国家の沈黙と正義の崩壊 2
数分後、パトロールドローンの低い機械音が空気を震わせ、二人の制服警官が現場に到着した。レオはほっと胸を撫で下ろしかけたが——その表情は、すぐに凍りつく。
制服に身を包んだ警官たちは、群衆に目をやるとまず家族の方を睨みつけた。その視線は、冷ややかで、偏見に満ちていた。
「問題のアンドロイドはどこだ?」
レオが言葉を発しようとするよりも早く、一人の警官が少年の前に立ちはだかり、手を伸ばした。
「おい、動くな。身分登録を確認する。型番と所有者の認証コードを出せ」
「やめてください!この子はうちの息子です!」
母親が叫ぶ。だが警官は冷たく言い放った。
「“息子”?冗談も休み休みにしろ。感情表現プログラムに騙される馬鹿はもういない。規約違反の可能性がある。保護義務違反として、AI家庭管理局への通報を行う」
レオは思わず一歩前へ出た。抑えようとしていた怒りが臨界に達し、警官に詰め寄る。
「感情表現プログラムだなんて……一体、いつの時代の話をしているんだ? この子には、人間の脳構造を完全に模倣した電子脳が搭載されている。人間と同じように経験から学び、感情を内面化し、自我すら持つ存在だ。それを“プログラム”呼ばわりするなんて、時代錯誤にもほどがある!」
だが警官は鼻で笑い、言い返した。
「それだって、所詮は感情表現プログラムと大して変わらないだろうが。結局、作られたもんなんだよ。自我? 本物の感情? そんなもん、誰が証明できるっていうんだ」
レオの拳が震えた。言葉の刃よりも鋭いのは、こうした思考が未だ制度の裏に根を張っているという現実だった。
「この家族は何もしていない! 悪いのは彼らを追い詰めたほうだ。私は目撃者だ。通報者でもある。あなたたちは何を見ているんだ……!」
だが警官の一人はレオを睨みつけた。その眼差しには、明確な拒絶があった。
「君のことも聞いたよ、大川戸レオ。みなし超人類……なるほど、そういう立場なら、アンドロイドに肩入れする理由もあるか。だが、ここは我々の“現場”だ。余計な口を出すな」
その言葉は、法の番人が発するべきものではなかった。冷たく、無関心で、そして社会の空気に忠実すぎた。
レオは、少年の青い瞳と目が合った。その光は、無垢だった。痛みにも、恐怖にも染まっていない。ただ、静かに世界を見ていた。
——ああ、これが、現実か。
かつて、父・シリウスは語っていた。
『人類と機械は、共に生きられる。誤解も衝突もあるだろうが、理解は必ず、歩み寄りの先にあるんだ』
だが、目の前にあるのは歩み寄りではなかった。これは、一方的な排除だった。言葉の余地すらなく、冷たい暴力と制度が、善意を潰していく。
警官は少年に連行を命じ、家族は泣き叫ぶ。レオの足は、硬く地に縫い止められたまま動かなかった。
自分は、どちら側に立つべきなのか。 いや、どちらかを選ばなければならないのか。
その問いは、胸の奥に静かに沈んだ。だが答えは出なかった。
そしてその問いの底に、どうしようもない無力感と、夢が遠ざかっていく感覚が残った。
——父さん、あなたの「共存の夢」は、本当にこの世界に、必要とされているんだろうか。
*
帰宅後、レオは靴を脱ぎながら「ただいま」とつぶやいたが、返ってくる声はなかった。
リビングの奥。居住型アンドロイド用の充電ポッドでは、父・シリウスが仄かな青白い光に包まれ、静かに沈黙していた。
定期メンテナンスのためにシステムを半休止状態にして、すでに三日が経つ。母・真凛はそれを「予防的な処置」と言っていたが、再起動の目処は曖昧なままだった。
台所のカウンターには、母が出勤前に残したメモが置かれていた。
《トランス体適応実験の進捗、要記録。夕食はいらない》
いつもの、そっけない走り書き。レオは冷蔵庫を開け、昨日の残り物に手を伸ばしかけてやめ、代わりにミネラルウォーターのボトルだけを取り出した。
部屋に戻ると、彼はそのまま床に寝転び、天井に埋め込まれた人工光源を見上げた。
――俺は、有機体の生身の身体を持った人間だ。
だが、同じく有機体の身体を持つ現生人類や超人類、トランス・ウルトラ・ヒューマンたちからは、仲間として扱われない。
無機物の身体を持つアンドロイドや機械人類から見れば、俺は生身の“人間”であり、当然のように「そっち側」に分類されて、疎まれる。
「心を落ち着けられる場所が、どこにもないや……」
そう声に出した瞬間、胸の奥を虚しさが満たし、うっすらとした怒りがその隙間をなぞった。
“境界”とは、可能性と孤立の両方を孕んだ場所。
だが、どちらにも踏み込めず、ただ立ち尽くす者にとって、それは地獄にも似たものだった。




