第八節 父・シリウスとの対話と絆 1
レオとミナトが〈深層ノード〉を後にして愛知湾岸中央水産研究所の建物から外に出ると、夜が完全に地表を覆い尽くす直前だった。
飛霞自治州の空には、うっすらと青黒い雲が流れ、西の地平にわずかな光の名残を残していた。
冷たい海風が地を撫で、砂塵の中に電子廃棄物の匂いと、かすかに腐食した鉄の香りが混ざっていた。
二人用自律移動ポッドに乗り込んで〈ノー・エッジ〉の第一アジトへ戻るまで、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
言葉にするにはあまりに複雑で、未整理の思考が頭の内側を幾重にも渦巻いていた。
到着後、レオは黙ったまま携帯端末を起動し、母・真凛へと連絡を入れる。ミナトは横でその姿を見ていた。
数秒後、応答音が鳴り、端末のディスプレイに現れたのは、優しげながらもどこか疲れた表情の女性だった。
彼女の背後には、医療機器らしき機材がいくつか見えていた。
『どうしたの? 何かあった?』
真凛の声は、通信の遅延を越えて、レオの胸の奥に直接届いた。
「ああ。母さん……父さんのことを聞きたい。今、どこにいる?」
『転院先が知りたいのね……琲紅自治州・江浜市にある『小川機械記念病院』というところよ。飛霞州の東端と隣接していて……治安は悪くないわ。そこに、安全に運ばれたと聞いてる』
真凛は淡々と答えた。
「母さんにも聞いて欲しいことがあるんだ。だから俺たちと一緒に父さんを見舞って欲しい」
レオの声と表情から尋常でない決意が滲んでいた。
真凛はそれが何かわからなかったが、悪いことだというのは直感的に理解できた。
『わかった。それじゃあ、病院に着く頃になったら、連絡して頂戴』
「そうするよ。それじゃあまた」
レオは通信を切った。無言で端末をポケットへ戻す。
「ごめん、待たせた」
レオはミナトとともにアジトへと足を踏み入れた。
入り口から下層階へ続く階段は、厚い鋼板で補強され、わずかな音も響く構造となっていた。
彼らが向かったのは、地下にある〈ノー・エッジ〉の心臓部——作戦室だった。
作戦室の扉が静かに開く。
室内はいつも通り、沈黙と機械的な気配に満ちていた。
中央の円卓からはホログラムによる三次元地図が立ち上がり、飛霞自治州の全域が浮かび上がっていた。
その周囲には数名の作戦担当者が無言で端末に向かい、それぞれの任務を遂行している。
部屋の最奥、カーテンの奥から現れたのは、エイジだった。
黒髪を短く刈り込み、痩身ながらも芯の通った姿。
彼の眼差しは、レオが告げようとしている何かが深刻であることを察しているものだった。
レオは彼に向かって一歩、二歩と近づき、そして深く息を吸い込んだ。
「エイジ……君にどうしても話さなきゃいけないことがある。ただ、その前に……父に会いに行く必要があるんだ。今、琲紅自治州江浜市の小川機械記念病院にいるらしい。帰りは明日の昼過ぎになると思う」
エイジはしばし沈黙した。
「何か、あったんですね」
レオは何も答えなかった。
少し間の後、エイジがゆっくりと頷いた。
「わかりました。明日、聞かせて頂きます」
短いやり取りが終わると、レオとミナトは再び地上へと戻った。
外はすでに夜の帳が降りていた。
二人はアジトの格納庫から、二人乗りの自律移動ポッドを呼び出した。
流線型のボディは漆黒の塗装で包まれ、光を吸い込むような質感を持っている。
無音に近い稼働音と共に、それはゆるやかに浮かび上がった。
目的地は琲紅自治州・江浜市——海沿いのルートを選択することで、危険区域を回避できることは事前に確認済みだった。
ポッドがシステムを自動で起動し、進路を定める。
「あなたのお父さんは、何も知らないと思う」
ミナトが呟いた。
彼女の横顔には、迷いを含みながらも、レオを育てたシリウスが悪い人間とは思えないという気持ちが滲んでいた。
「俺もそうあって欲しいし、また、そうじゃないかとは思ってる。だから、真実を確かめたいんだ」
ポッドは夜の風を切り、海沿いを走る道へと滑り込む。
都市の灯は遠ざかり、代わりに月光が海面を静かに照らしていた。
州境のゲートは静かだった。
統一政府の管理下にある監視施設だったが、レオが先日使用した政府職員の偽造IDは今回も効果を発揮した。
赤外線スキャンと網膜照合を通過し、ゲートは無言のまま開かれた。
レオは真凛に州境を越えたことを携帯端末から連絡した。
すると真凛は病院の入り口で待っていると告げて、通信を切った。




