第七節 たとえ分断が深まろうとも 2
「やはりここは、データの保管施設であり、それ以外には読み取りしかできないんだな……」
レオが呟き、静寂の中に彼の声だけが吸い込まれていく。そして彼は、一つの決断を下す。
「……上手く行くかわからないが、これしかない」
彼は再び操作卓の前に立ち、傍らの生体認証スキャナへと歩み寄った。
迷いはない。掌をゆっくりと、けれど確かに押し当てる。
金属の縁が微かに熱を帯び、スキャンが始まった。
掌紋。指紋。血流。体温。呼吸。次いで、全身の骨格と神経伝達速度。
スキャンは完了し、冷たい声が応答する。
「識別不能──権限不所持者。持ち出し不可」
レオはスキャナの前に立ったまま、はっきりと口を開いた。
「俺はAIノードから選ばれた。四つの人類種の懸け橋として、ここに立ってる。その権限に基づき、このデータの持ち出しを許可してくれ」
数秒間の沈黙があった。〈沈黙の層〉の全てが一瞬、深く思考するように、息を止めたかのようだった。
「……レオ・アーク。識別済。統一政府AIノードの特例承認に基づき、限定的複製権限を認可」
ホログラムに浮かぶ警告マークが消え、蒼白い光が操作卓の周囲に帯のように走った。
レオとミナトは顔を見合せた。
ミナトが目を見開いて言った。
「いける!」
レオは無言のまま頷いた。
静かに、しかし確固たる意志を込めて端末を再び構える。
さきほどまで彼らの行動を阻んでいた妨害電波は、もう発せられていなかった。
彼は一枚、一枚と、ホログラムに映し出された情報の断片をスクリーンショットに収めていく。
静かな空間に、シャッター音すらない。
ただ、指先の動きと、淡く明滅する光だけが記録作業の進行を示していた。
ミナトもまた、黙々と動画記録を続けていた。
手にした携帯端末のレンズが、ホログラフの中に浮かび上がる数多の螺旋構造と符号群を、丹念に追ってゆく。
その目には冷静さと怒り、そして覚悟が宿っていた。
映し出されたのは、トランス・ウルトラ・ヒューマンの構成因子。
その螺旋は、まるで人工の意志が編み上げた鎖のようだった。整然と並ぶ遺伝子コードの連列。その隙間に記された、冷たくも正確な説明文──人工人造遺伝子、それがどう生成され、いかなる目的でレオに組み込まれたかの詳細。そして、全体を貫く巨大な構造体──〈シリウス計画〉の全貌。
すべてが、確かにそこにあった。改竄される以前の、真実のままの姿で。
それは単なる記録ではなかった。
事実の集積でも、研究資料でもない。
レオにとっては、世界の裏側に潜む真実の片鱗であり、知りたくなかった闇そのものだった。
記録を終えた時、レオは静かに視線をミナトへと向けた。
彼女もまた、長く吐息を漏らしながら頷いた。
その仕草には、言葉にできない重さがあった。
「俺は……」と、レオは低く口を開いた。
「以前、〈シリウス計画〉のような、人類種を超える統合の試みを世に出したら、混乱を招くだけだ、むしろ、人類の分断がより深まるだけだ、だから、当面は公表しないと言った」
そのときのことを思い出しているのか、彼の声にはどこか迷いが残っていた。
ミナトがそっと口を開く。
「私もその時は、同じように考えてた」
だがそこで彼女は言葉を詰まらせ、苦しげに唇をかみしめた。
レオが、絞り出すように言った。
「だが……こんな常軌を逸した、非人道的な行為は、黙っていたら駄目だ。これは……ただの構成因子設計じゃない。人体実験そのものだ。統一政府は、人権意識がないどころか……完全に狂ってる」
言い終えるとレオは沈黙した。
拳を握りしめ、悔しそうに下唇をかみしめる。
その目の奥には、深い怒りと、どうしようもない無力感が混ざっていた。
ミナトが一歩近づき、彼の肩にそっと手を置いた。
「あなたの意見に、賛成。たとえ混乱が起きたとしても……それでも、知られなければならないことってある。みんな、知るべきだと思う。統一政府が、何をしてきたのかを」
その声は、静かだった。
しかし、そこに込められた決意は、どんな大音声にも勝るほど、強く、深かった。




