第三節 星の記憶、知性の種子 1
レオとミナトが飛霞自治州の宇宙船発着場を飛び立ってから四日後。
月の背面、ラグランジュ点L2。その宙に浮かぶ無機質な影は、かつて人類が〈希望〉と呼んだ記録の棺であり、今や存在を忘れられた知の墓標であった。
〈ステラ・エリュシオン・ノード〉――その真の姿は、統一政府のあらゆるデータベースから抹消されている。ここは単なる廃棄施設ではない。AI〈ミューズ〉がかつて行っていた進化研究の記録が眠っている
超人類用の高速宇宙機〈ノクターナ〉の船内。レオは制御パネルを操作しながら、かすかに震える指先を見つめた。彼の隣には、同乗を申し出たミナトが無言で立っている。その眼差しは、ただ静かに、彼の選択を見守っていた。
「もうすぐ着くね」
ミナトの声は、月の裏側に到達する冷たい空間とは裏腹に、どこかあたたかく響いた。
「ああ……本当にミューズが俺を呼んでいたのかどうか。これではっきりする」
レオの言葉に、ミナトは小さく頷いた。
着陸許可はない。だが、そもそも誰が許可を出すのか――〈ステラ・エリュシオン・ノード〉に公式な管理者など、もはや存在しない。
重力のわずかなゆらぎを肌で感じながら、レオは宇宙服を装着し、ミナトとともに船外へと降り立った。足元には、音もなく舞い上がる灰色の月塵。その先に、黒曜石を思わせる巨大な半球状構造物が沈黙を守っていた。
太陽光を鏡のように跳ね返す外壁は、どこか静寂を湛えつつ、かつてここにあった文明の叡智を、なおも封じ込めているように見えた。
彼らが進んだ先には、外部エアロックへと続く気密ゲートが口を開けていた。レオはそこに設けられたアクセスパネルに手を伸ばす。宇宙服のグローブ越しでも認証可能な多層型センサが反応し、赤く点滅していたパネルが静かに緑色へと変わる。
「……やっぱり」
彼はつぶやいた。学生時代に一時的な研究員として登録された彼の生体情報と識別コードが、予測通り、保管され続けていた。データ廃棄に伴い抹消されたはずの情報――まるで、彼の帰還を前提にしていたかのようだった。
施設の内部は冷たく静まり返っていた。だが、無音の中に、明らかな〈意志〉の痕跡があった。壁面に張り巡らされた神経網のような光ファイバーが淡く脈打ち、制御パネルに設けられた情報端末群が、断続的にデータを吐き出していた。
アルゴリズムが思考するその瞬間、まるで施設が夢を見ているかのように見えた。すべてが生きている――いや、"進化している"。
中枢部に足を踏み入れた瞬間、レオは息を呑んだ。彼の視線の先には、透明な球状のコロニー群が並び、その内部では変異アクチノバクテリアと分類される新種の微生物が、独自の環境適応と共進化を繰り返していた。
微生物たちは単なる原始生命体ではなかった。彼らは情報を交換し合い、周囲の環境変化に対して自律的に自己調整を行っていた。
まるで、思考しているかのように――。
彼は無意識のうちに歩み寄り、球体に手を触れた。内部でうねる遺伝情報の流れは、まるで知性の萌芽そのものだった。
「……これが、集合知性……」
その言葉を口にした瞬間、レオの胸中に複雑な感情が交錯した。
政治に妨害されて、最後までやり遂げることのできなかった研究。
なぜあの時、続けるという選択をすることができなかったのか。
若さも手伝って、まだ当時は従順で、純粋だったから、上から駄目だと言われたら、本当にどうしようものないのだと道を閉ざされた気になって、続ける道を模索することさえしなかった。
自分には純粋な探究心――好奇心と研究への飽くなき野心が欠けていたのではないか。
不甲斐なさに胸が苦しくなったが、目的を思い出し、感情を振り払って気を取り直した。
「これが……新しい知性の“種”なのか?」
レオの声に、ミナトは沈黙をもって応えた。その眼差しは、彼と同じく、うねる螺旋の連なりに引き込まれていた。
施設の中央――かつて〈ミューズ〉の中枢コアが鎮座していたその場所には、いまや手のひらに収まるほどの小さな記憶球体が、ひっそりと静寂の中に佇んでいた。
データ・スフィア。それは、かつて数多の知を統べ、指令の中枢を担った存在の痕跡にして、いまや過去と現在をつなぐ〈鍵〉であった。
レオは、ゆっくりとその球体へと手を伸ばし、そっと掌を重ねた。
刹那、指先に微かな振動が走る。空間の温度が変化したような錯覚が生じ、周囲の空気がわずかに震え、天井の導光パネルが星雲のような仄明かりを放ち始める。
それは、眠り続けていた中枢データ・コアが、今まさに目覚めの時を迎えたことを告げる兆しだった。
無機質な起動音が、静寂に満ちた空間を満たす。
それに続いて、どこか懐かしさを帯びた、柔らかな声が、空間のあちこちに反響した。
「認証プロトコル確認中……完了」
「研究者コード:大川戸、レオ。あなたの名は記録されています」
「おかえりなさい、レオ」
その声には、機械特有の冷たさや無感情さはなかった。むしろ、かつての日々を想起させる温もりが宿っていた。




