第一節 閉ざされた円卓 2
研究室の扉が静かに開き、レオが無言のまま戻ってきた。
その足取りは、いつものような迷いのないそれではなかった。白衣の裾が微かに揺れ、背筋はわずかに傾いていた。
彼の目は伏せられ、額には見慣れない皺が寄っていた。
日野はすぐに、〈第六小会議室〉の種別調整会議で何かされたと察した。
部屋の空気が変わった。無音の温度が、ほんの少し下がった気がした。
「おかえりなさい。……お疲れさまでした」
彼女は椅子から立ち上がると、卓上のポットから蒸気の立ちのぼるカップを手に取り、レオの席にそっと置いた。
彼は短く頷くだけで、ほとんど視線を向けなかった。
「……また、何か言われました?」
声の調子は、あくまで穏やかだった。問いかけというより、確認のように響いた。
レオは答えなかった。だが、その沈黙がすでに肯定だった。
「でも、あの人たちは、あなたが怖いんだと思います」
日野はそう言って、静かに微笑んだ。
その笑みには、慰めよりも確信の色があった。表面だけを撫でるような同情ではなく、彼女なりに感じ取った真実が込められていた。
「現生人類って、たしかに“純血”ではあるけど、変わってないってことでもあるじゃないですか。進化しないまま、制度に守られて生きてる。……だけど、あなたは違う。現生人類として生まれて、それでも、もう別のところまで来ちゃってる」
レオは手にしたカップを見つめたまま、ふと視線を横へ流した。
その眼差しに、わずかながら翳りが消えていた。
「……君は、怖くないのか」
低く、かすれた声だった。感情を隠そうとするような、抑えられた響き。
「あなたが、ですか?」
日野は目を細めた。答えるまでに、わざと間を置いた。
「――怖くないですよ。だって、あなたは、誰よりも人間らしいですから。時々羨ましいとさえ思います。トランス・ウルトラ・ヒューマンが機械と融合した果てに何を失ったのか、あなたを見ると気づかされるんです」
レオは返事をしなかった。ただ、小さく息を吐き、椅子にもたれた。
その動きには、誰かの言葉に対する応答というよりも、自らの思考に一区切りをつけるような、ある種の「終わり」がにじんでいた。
日野の声が、確かに彼の耳には届いていた。
その温度も、言葉の選び方も、彼女なりの精一杯の励ましだったことは、ちゃんと分かっていた。
けれど、その理解とは裏腹に、心の奥に差し込んだ重たい影は、そう簡単には晴れてくれなかった。
ひとときの慰めは、沈んだ海面に浮かぶ泡のように、儚く、頼りなかった。
すでに作業中のAIユニット〈モニターβ11〉が、壁一面のスクリーンに、今日分の海水サンプルの化学組成とプランクトンの群集動態をリアルタイムで流している。
「大川戸レオ研究員。午前9時27分、あなたの生体認証ログに一時的不整合が発生しました。要確認フラグを立てております」
「ありがとう。後でチェックする」
「了解。なお、今朝の外部接続ポートにおける異常も確認済みです。処理速度は従来比102.4%に向上しました。あなたの前回提示した解析指標を参照し、推定アルゴリズムを調整済みです」
AIの声には揶揄も優越感もない。感情という回路を持たないそれは、ただ淡々と、結果という名の結論を提示するだけだった。
その“結論”は、時に人間の直観を先回りし、予測し、置き換えてゆく。
レオの仕事は、もはや独立した創造行為ではない。AIによって観察され、抽出され、次第に“指標化”されてゆく。
けれども、それは「盗用」などではなかった。統一政府の評価基準では、「最適化」と呼ばれ、むしろ推奨される行為だった。
人間の思考が、機械の論理に埋もれていく。
レオは椅子に深く身を沈め、モニターの片隅に点滅する警告ログに目を落とした。
その視線の奥で、ひそやかな疑念が、静かに揺れていた。




