第一節 閉ざされた円卓 1
愛知湾岸中央水産研究所内の第六小会議室は、いつになく沈黙に包まれていた。
ここは、湾岸中央水産研究所に設けられた「種別調整会議」の定例の場。構成員は、いずれも〈みなし超人類〉と認定された現生人類の職員たちである。
レオを除けば、彼ら全員が遺伝子改変を一切受けていない両親のもとに生まれた、純粋な現生人類だった。それにもかかわらず、いや、それゆえにか、彼らの知能指数は常人の領域を遥かに超えていた。
壁面には情報端末が等間隔に並び、空調音だけがわずかに耳を撫でている。
大川戸レオは、ガラス製のドアを静かに押し開けた。だが、その足音を背に振り返る者は誰もいなかった。
部屋の中央には、円卓型のデジタル会議テーブルが設置されている。その周囲に、主任研究員の矢代、データ管理責任者の奥寺、環境モニタ班の岸谷ら、計八名が着席していた。だが、彼らはレオに視線を向けないまま、すでに始まっていた議題を進行していた。
「次に、人工プランクトンの成長速度について。昨年度比で8.2%の変動がありますが……」
「それ、超人類側の水温調整プロトコルが関係してる可能性は?」
レオは、声を整えて言葉を挟んだ。
「失礼します。それに関しては先週、〈第二湾〉の超人類班と共有したデータがあります。必要であれば今、引き出します」
一瞬、場が止まったように思えた。
だが矢代は、まるでその声が空気中に消えたかのように無反応のまま、会話を再開した。
「まあ、温度調整の件は後回しで。次、外部アクセスのログ監査だけど……」
レオの端末にリンクされたディスプレイだけが、無言のまま微かな光を灯していた。何の指示も、求めも、返答もない。手元に整えた資料は、開かれることすらなかった。
会議室の空気は次第に重く、湿り気を帯びていく。人工海水のような、閉じた匂い。それは、海ではなく、人の隔たりそのものだった。
レオは、表情を変えずに座っていた。微笑みすら浮かべることもなく。言葉を奪われたのではない。ただ、言葉を使うべき「場」が与えられていないのだと、彼は理解していた。
まるでそこに「存在していない」かのように、会議は静かに進行していった。
会議が終了したのは、予定より二十分ほど早い時刻だった。
誰からともなく椅子が引かれ、電子書類のファイルが端末から消去されていく。会議テーブルの中央に表示されていたホログラフィックのロゴがフェードアウトし、無機質な天井照明がその光を取り戻した。
レオも静かに席を立つ。彼の存在は、終始最後まで「議題の外」に置かれたままだった。
部屋を出ようとしたそのとき、矢代が声をかけてきた。
「……ああ、大川戸くん。ちょっとだけ、いいか」
レオはわずかに顎を引いて足を止める。矢代は会議室の外、誰もいない廊下へと彼を導いた。
「気にするなよ。ああいう場じゃ、タイミングってのがある。皆もさ、君を排除したいわけじゃない。ただ……分かるだろう?」
その口調は穏やかだったが、言葉の端々には微かな防衛線があった。
「分かります。僕は……現生人類の分類に属していても、“純粋種”じゃない」
レオは、努めて淡々と答えた。矢代の目がわずかに揺れたが、すぐに視線を逸らした。
「悪く思うな。これは、現場の統制上の問題なんだ。超人類との共同プロジェクトが多すぎて、現場の意思決定がブレる。で、君の立場がちょっと、ややこしく見えるだけさ。……それだけだ」
それだけ。
その言葉の簡潔さが、逆に全てを物語っていた。
矢代は、それ以上何も言わずに立ち去った。廊下の奥で誰かとすれ違い、軽く会釈して、やがて角を曲がって見えなくなった。
レオはしばらくその場に佇んでいた。ガラスの壁越しに差し込む冬の光が、白い床に長く影を伸ばしていた。
そのまま中央研究棟へ戻ろうとした時だった。向こう側の廊下から、一人の女性研究員が歩いてきた。超人類班の上級研究員、アイラ・クォート。拡張神経網と量子思考補助装置を有する、正規の第三世代トランス・ウルトラ・ヒューマンである。
彼女はレオの姿を見ると、ほんの一瞬だけ歩みを緩めた。だが、言葉も視線も交わすことなく、そのまますれ違っていった。
無言。無表情。必要のない存在に対する、それ以上でも以下でもない反応だった。
――風景の一部。
レオの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。誰かにとって、自分という存在は単なる装飾、空間の片隅に据えられた“誤差”でしかないのかもしれない。




