第十五節 夜明けの証明 4
グラディスは話題を変えた。彼の声はあくまでも自然体で、それでいて柔らかな余韻を帯びていた。
「ところで、大川戸くん。君がプレプリントサーバーに一時だけアップロードしていた草稿──〈自己調整型マイクロ生態系モデル〉。あれを拝見させてもらったよ」
その言葉に、レオは僅かに目を見開いた。驚きを隠せない様子で彼が返した。
「……見たんですか? いつの話ですか?」
「ずいぶん前さ。正確には日付は覚えていないけれど……君の名前を見て、すぐに思い出したんだ。ああ、あの時の赤ん坊か、と」
グラディスの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
その笑みは懐かしさと、微かな誇らしさの入り混じったもので、彼の彫刻のような顔立ちに柔らかな陰影を添えた。
「きみがまだほんの赤子だった頃──お父上の家を訪ねたことが何度かあった。君はずいぶんと泣き虫だったが、目の奥に光を宿していてね。将来が楽しみだと、そう思ったものさ。それがあのような深い構造性をもったモデルを構築できるようになった。立派なものだよ、大川戸くん」
その言葉を受けて、レオの表情に一瞬だけ何かが浮かんだ。
感情の綾を織り成すような、微妙な陰りが瞳に宿り、彼の視線はテーブルの一点に落ちた。
「……ありがとうございます」
グラディスはそれを見逃さなかった。彼は椅子の背にもたれ、やや視線を斜めにずらすようにしながら、ゆっくりと問いかけた。
「どうやら、その草稿にまつわることで何かあったようだね。もしよければ、話してみるといい。役に立てるかはわからないが」
レオは一瞬、言葉に詰まりかけた。だが隣に座るミナトが静かにうなずき、彼に目を向けていた。
その瞳の奥には、共鳴する痛みと、分かち合おうとする意志があった。
レオは深く息を吸い込み、意を決したように口を開いた。
「院生の頃、研究内容が認められて、統合科学院の推薦を受け、L2の〈ステラ・エリュシオン・ノード〉で、AI〈ミューズ〉と共同研究を行ったんですが……何故か研究が中止になって、論文も発表直前まで行ったのに、駄目になってしまって……」
レオが当時を思い出し悔しそうに下唇を噛んだ。
「それは残念だったな」
グラディスが慰めるように言った。
「それだけじゃないんです。最近、……僕の勤務する研究所で、最近、水槽内の水生生物に異常行動が見られるようになったんです。それに、研究所のサーバーと……エリュシオン・ノードへの不正アクセスがあったことがわかりました」
グラディスの目が静かに細められた。
レオは語りを続ける。
「それらのアクセスは、どうも僕の論文で提案したモデル──あの生態系の自律調整アルゴリズムに関係している可能性が高い。つまり、誰かが論文を盗み、その理論を試すような実験を行った……そう疑っています」
沈黙。
数秒間の空白が落ちてから、グラディスは椅子の肘掛に指を絡め、低く、しかし明瞭な声で言った。
「……それは妙だね。もし本当に君の論文を盗んで利用したのであれば、なぜ、論文の著者自身が所属する研究所で、そんな真似をするのか。きみに気づかれて盗用したことが明るみに出たら、全てがご破算になってしまうではないか」
レオとミナトは顔を見合わせ、目を見開いた。二人が見落としていた視点だった。
「今まで盗まれたことにばかり気を取られていて、そのリスクは考えてもいませんでした」
「もしかするとそれは──AI“ミューズ”が、君を呼んでいるのかもしれない」
グラディスの語調が、少しだけ低くなった。まるで、秘密の祈りを唱えるかのように。
「何かを伝えたくて、君に気づいてほしくて。あえて危険を冒してでも、実験の痕跡を“君の目の届く範囲”に残した。いや、残したのではない、“置いた”んだ」
「そんなこと……本当にあるんですか?」
レオの問いに、グラディスはふと宙を見上げ、ひとつ息をついた。
「先月、統一政府内で、“〈混ざり者〉”に関する研究資料、それから人類種の能力向上や人類種間の認識の変化に関する未公開データが、大量に流出した事件があったのは知っているね?」
ミナトが頷き、レオも頷いた。
「あれは、AIノードの仕業だと見ている。少なくとも、私の調べた限りではそうとしか思えなかった。外部侵入の痕跡もなければ、政府内部の犯人を特定する手掛かりもない。つまり、“誰でもない何か”が動いた。だがそれは……政府の中枢に存在し、人類種を維持するための装置──AIノードが起こしたと考えない限り、動機がわからない」
「それは……AIが、自発的に動いたということですか……?」
ミナトの声には、信じがたいという感情が強く出ていた。
「AIノードは本来、人類種を維持する為の機構にすぎない。だが、もし人類種の維持が崩壊の瀬戸際にあると判断すれば──自ら行動を選び取る可能性もある。それは“緊急的自律判断”と呼ばれ、最も深層に埋め込まれた制御モードだ。滅多に起動されることはないが……今、統一政府の内部では、静かにだが、確かに何かが崩れ始めているのかも知れない」
グラディスの言葉は、空気を震わせるような重さを帯びていた。




