第十五節 夜明けの証明 3
リーダー室は拍子抜けするほど質素だった。壁面の一角に本棚があり、その反対側には木製の机が一つ。
部屋の中央には三人がけの応接用ソファと低いテーブルが置かれていた。
それらはどれも機能本位で、過剰な装飾や無意味な威圧感といったものは一切なかった。
だが、そこに立つ男の存在だけが、その空間のすべてを引き締めていた。
「私がリーダーのグラディス・カール・ヴァンデルメイユです」
低く深みのある声が静かに響いた。
銀糸のような髪を後ろに束ね、整えられた顎髭が知性と風格を形づくっている。
灰色の瞳は、まるで宇宙の奥底を見通すかのような静謐さと深みを湛えていた。
彼の視線がレオとミナトに向けられると、空間の温度が一瞬変わったような錯覚さえ覚えた。
「俺は大川戸レオです。彼女は篁ミナトと言います」
レオが自分とミナトを紹介すると、彼女も軽く頭を下げた。
「初めまして」
グラディスはわずかに微笑み、広い掌で二人に着席を促した。
「まあ、座ってください。長い道のりでしたね。歓迎します」
三人がソファに腰を下ろすと、わずかな沈黙の後、グラディスが口を開いた。
「まずは……シリウス・ゼノン・アーク。お父上はお元気ですか、大川戸くん」
レオは苦く微笑み、肩を落とすようにして答えた。
「……今は長期入院中です。故障してしまって」
グラディスの瞳がわずかに細められた。
「そうですか。それは……心配ですね」
グラディスは静かに頷いた。
「彼はアンドロイドなので、修理すれば復旧する可能性が高いことは承知しています。けれど、そういう問題ではないんですよね。……家族として心配する心中をお察しします」
レオは静かに頷いた。ミナトの視線が彼を包むように見守っている。
「お母上、真凛さんはお元気ですか?」
グラディスが問いを変えた。
「はい。母は元気にしています」
「そうか。それはよかった」
グラディスの表情にふっと柔らかさが差した。
「あの人は昔から気丈で……それでいて、芯の強い人でした。私たちのような不器用な人間には眩しいくらいだった。今も変わらないんでしょうね」
レオは曖昧に笑った。母の強さを思うとき、彼はいつもほんの少し気圧されるような思いにとらわれる。だがそれは、愛情の形の一つだった。
グラディスはゆっくりと背もたれに身を預けながら、言葉を継いだ。
「私とシリウスは……“分岐前の思索者たち”の仲間でした。当時、私たちは政府の制度が人間性を枠に閉じ込めていく未来に抗おうとしていた。だが政府は、我々のような存在を好まなかった。シリウスはAI倫理委員会の“特別顧問”という肩書だけの、名ばかりの職に追いやられ、私も“高等学術院顧問”という名目で実質的に発言力を封じられました」
彼の言葉には、悔しさよりも静かな諦念がにじんでいた。
「私はその後、職を辞しました。そして、自宅に籠り、思想研究に専念するようになった。……だが泰平自治州に、私の思想に共鳴してくれた人物がいた。名は鈴木。州政府の高官です。彼の尽力で私は教師として州の高等教育機関に迎えられた。表向きはただの物理学の教員でした。学問と思想を細々と教える、隠遁者のような生活でした」
彼の瞳に、過ぎ去った日々への懐旧の色が差した。
「しかし……私の元には、次第に似た思想を持つ者たちが集まってきた。自らも種別に疑問を持ち、社会の分断に心を痛めていた若者たちです。そうして、いま皆さんが足を踏み入れているこの“混ざり者の隠れ家”が生まれたのです」
「活動拠点がここにあるのは、鈴木さんの協力あってのことでした。ここは、かつて泰平自治州の情報処理中枢を担っていた大型データセンターの跡地なんです。今では州の支援のもと、表には出せない形で資金援助も受けている。物資や機材には困っていません」
レオとミナトは顔を見合わせた。地下組織とは思えぬ整った環境に、ようやく納得がいった。
「……最近、飛霞自治州で武装暴動が起きて、統一政府は非常事態宣言を出し、州を見捨てた。泰平自治州と接する斗馬市では、住民が戦乱に巻き込まれて苦しんでいた。だから我々は“混ざり者の隠れ家”として、救助活動を始めた。これは思想でも政治でもなく、人道の問題だと、私は考えている」
レオがふと口を開いた。
「父は、グラディスさんの居所について、一度も口にしませんでした」
グラディスはゆっくりと頷いた。
「シリウスは、“分岐前の思索者たち”の各メンバーのその後の消息を、途中までは確実に知っていました。けれど、当時、私たちは政府にとって危険人物と見なされていました。監視の目を逃れる為に、身を隠す仲間もいました。だから息子である君にさえ、話せないことだった。シリウスだけでなく、私も、他のメンバーとは敢えて連絡を取っていません」
グラディスは一旦言葉を切った。そしてレオをじっと見た。
「動画プラットフォームから配信された、君の最初の演説、あれは非常に素晴らしかった。私は勇気づけられたし、“混ざり者の隠れ家”の同志たちも同じ思いだった。また、君の演説以降、我々の活動に参加したいと言って、理解を示す者が、日を追うごとに増えている。君の演説は間違いなく、世の中を大きく変えたのだよ。人類の夜明けは近い」
グラディスの面持ちはとても感慨深げだった。
その言葉に、レオは胸が熱くなった。ミナトの心にも彼の言葉がじんわりとしみ込んでいった。
部屋に沈黙が落ちた。
だがその静寂は、暗さではなく、共に重ねた時間と想いへの敬意によるものだった。




