第三節 潮騒の裂け目 2
湾岸中央水産研究所と〈エリュシオン・ノード〉は、名目上は独立した研究機関である。しかし、過去に一度だけ、衛星軌道上の実験で両者が共同作業を行った記録が残っている。
偶然だが、レオは当時、大学院生で、学生研究員としてこの研究に参加していたことがあった。
あの時のデータが……まだ生きている?
「レオ、これ見てくれ」
研究員の一人が、海洋センサー群からのライブデータを示した。海水中の一部バクテリアの活動レベルが、異常な跳ね上がり方をしている。環境因子で説明できる範囲を逸脱していた。
「これは……自然発生の範囲を超えてるな」
レオは、唇を噛んだ。この“異常”が偶然ではないと、彼は直感的に理解していた。誰かが、何かを海に撒いた。しかも、それは人工的な何かだった。
変異曲線の急激な跳ね上がり、通常では考えられないバイオセンサーの反応、複数の海洋微生物群に同時発生した遺伝子変異——それらは、まるで何者かの意図をなぞるかのように、不自然に整っていた。
報告すべきかどうか迷いながらも、研究所の壁の中では気軽に話せないと、レオは判断した。
静かに研究端末をログアウトし、白衣を脱いで私服の上に畳むように持つと、ひとつ深呼吸をして研究室を出た。
階下に降り、人気の少ない管理ブロックの側道へ。アクセスの監視が緩く、通話の暗号化が自動で強化される区画だ。
薄暗い通路を歩きながら、レオは何度か足を止め、迷い、そしてようやく通信端末を取り出した。
現在、ミナトは短期出張で研究所を離れている。だからこそ、直接会うことはできない。
だが、それでも話さなければならない——レオはそう確信していた。
数度の操作の後、彼はミナトの連絡先を呼び出した。
通信はすぐに繋がった。画面の向こうに現れたミナトは、一瞬だけ目を見開き、思いがけない相手からの呼び出しに小さく息を呑んだ。
だがすぐに表情を整え、戸惑いを押し隠すように眉をわずかに引き、どこか探るようなまなざしでレオを見つめ返した。
「どうしたの? あなたが勤務時間中に連絡して来るなんて、よほどのことが起きたのよね?」
「おかしなことが起きてる。俺のIDコードを使って、誰かが機密ファイルの一部にアクセスした痕跡があった。……しかも〈エリュシオン・ノード〉が、うちの研究に干渉してきてる」
「……そんな、まさか」
ミナトが小さく息を吸い、信じられないという表情を浮かべる。
「俺の研究データが、〈ノード〉に渡った可能性もある。そう考えるのが自然だろ」
「〈ミューズ〉が動いて、あなたの研究データを取得した上で、湾岸近海を観測してる……そういうことなの?」
「〈ミューズ〉……」
レオは、その名を噛み締めるように、ゆっくりと呟いた。
学術研究用のメインフレームAI〈ミューズ〉。かつて学生研究員だった頃、自身が参加していた気象改変プロジェクトにおいて、知性設計の核心を担う存在だった。
データの海を共に泳ぎ、演算の迷路を抜けるたび、〈ミューズ〉はあたかも人格のような反応を返してきた。人ではなかったが、あの時の彼にとっては、紛れもなく“仲間”だった。
〈ミューズ〉は、自律的に判断を下すこともあるが、基本的には外部からの指示を受けて初めて本格的に動き出す構造になっている。
ならば——あの時の研究に関わっていた誰かが、今、舞台の背後から手を伸ばし始めたというのか。あるいは、〈ミューズ〉そのものが、自らの意思で行動を始めたのか。
そのとき、ミナトの瞳がふと動いた。
真剣な光が宿ったまなざしが、まっすぐにレオを見据えていた。
「何が起きているのかわからないけど、相手が悪すぎる。私たちにはどうすることもできない。とりあえず、事態の推移だけは見守ってちょうだい。総合環境庁には私から連絡を入れるから」
通話が切れた。冬の冷たい風が、レオの頬を刺すように吹き抜けた。
得体の知れない闇が、ひたひたと足元に広がっていくようだった。
誰が、どこで、何のために蠢いているのか――何ひとつとして見えてこない。
ただ一つ確かなのは、“知性の塔”〈エリュシオン・ノード〉が、この異変に深く関与しているという事実だった。




