第十二節 ハクの旅立ち 1
その夜、レオとミナトは、ハクの自宅を訪ねた。彼の家は、飛霞自治州の第六居住区画の外れ、旧ドレイン工業帯の再開発地区にひっそりと立っていた。
正式名称は『第七適応圏・境界人向け集合居住棟リリクスⅦ』。だが、住民や近隣住人の間では『七番街の檻』『グレイキューブ』『隔絶棟』など、皮肉とも嘲笑ともつかぬ異名で呼ばれていた。
灰色の合成石材と再生鋼鉄によって構築された五階建てのロの字型集合棟は、装飾という概念を拒むような無骨さに満ち、まるで要塞のような風貌を見せている。
設計は徹底して効率を追求したもので、廊下は鋭角的に折れ曲がり、内部構造は迷路めいていた。薄暗い通路に立つと、乾いた風が埃と金属の匂いを運び、足元には崩れた階段の破片や脱落した天井材が散乱していた。
各階は非常用エレベーターでつながれていたが、そのほとんどが既に動作停止している。
階段は軋むたびに鉄骨が悲鳴のような音を立て、崩落した箇所には住民たちが自作したロープや鉄板で即席の足場が組まれていた。
そこを幼い子どもが裸足で走り抜け、やがてどこかの部屋からか、甲高い泣き声と、それをなだめる母親の低い囁きが微かに漏れ聞こえてきた。
天井を見上げれば、かつて吹き抜けだった中庭の頭上は黒く煤けており、ねじ曲がった構造体が空を覆っていた。瓦礫と廃材に埋もれた地面からは、微かに腐敗しかけた合成繊維と焦げた金属の臭気が立ち上ってくる。
建物の外周には、旧時代の重工系製造工場や鋼材プレスラインの骨組みが、幽霊のように佇んでいた。
錆に喰われた鉄骨は軋み、吹きつける風に軋む音が混じる。どこかでネズミが鉄パイプを伝い、遠くで機械が壊れたような音を断続的に響かせていた。
今は一応の平穏が保たれているが、武装暴動初期には反機械人類系の武装勢力がこの区画を拠点にし、たびたび交戦や焼き討ち事件が発生した。
リリクスⅦも戦火に巻き込まれ、住民の一部が死亡し、または行方知れずとなった記録が残っている。
ハクが居住していたのは、リリクスⅦ南棟の四階、端部にある角部屋だった。
外部からの侵入経路が限られ、緊急時には隣棟との接続通路を利用して即座に逃げ出せる設計になっている。
まるで彼が最初から、そうした状況を想定していたかのような選択だった。
部屋の扉は手動で開けなければならず、内部に入ると、空気がどこか湿り気を帯びていた。明かりは手動発電機に依存しており、光はゆらめきながら壁に不規則な影を投げている。
レオとミナトは、剥き出しの金属製の床に並べられた低いテーブルの前に腰を下ろした。椅子は古い合成プラスチック製で、座るたびに軋み音を立てた。
壁際には、食べかけの合成食パックや、読みかけの記録媒体が無造作に積まれていた。
部屋の片隅には、壊れた携帯端末や改造途中のドローンが部品ごとに分解されて置かれており、その隣に雑に放置されたブーツには、まだ乾ききっていない泥の跡が残っていた。
壁には幻想的な雰囲気をたたえた絵がいくつも飾られていた。
北欧神話に登場する巨人や精霊、中東の伝承に現れる幻獣や古代都市の風景――それらはどれも、現実と空想のあわいに佇むような静けさをまとっていた。
おそらくハク自身が描いたものなのだろう。彼の中に流れる二つの文化の記憶が、筆を通じて形を成したかのようだった。
リビングの一隅に立ち止まり、一枚の絵に目を留めたミナトが、ふと口を開く。
「これは何?」
すでに奥のキッチンで湯を沸かしていたハクが、肩越しにちらりと振り向き、小さく笑った。
「神話や創作された伝承って、現実にないもののはずなのに、時々、妙に自分に近い気がするんだ。……ああいう存在たちも、どこにも属せず、何かと何かのあいだにいるだろう? それが、少し似てる気がしてね」
そう言ってから、彼はカップを手に持ち、こちらへと歩いてきた。
「これは、自分が何者かを考えるための手段なんだ。言葉じゃなくて、形にしておきたかっただけ。……誰かに伝えるためっていうより、自分自身のために」
その声は、どこまでも穏やかだった。だがその奥には、自らの立場を客観視する冷静さと、それでもなお世界との接点を求める、静かな情熱がにじんでいた。
赤銅色の髪を軽くかき上げながら、ハクはレオとミナトの前に一歩進み出る。肌には人工遺伝子操作の痕跡がわずかに残り、それは窓から差し込む午後の光の中で淡く浮かび上がっていた。
「よく来てくれたね」
そう言って、彼はテーブルのまわりに並べられた簡素な椅子のひとつを手で示す。
「狭いけど、よかったら座って」
レオとミナトは軽く頷き、ハクの示す椅子に腰を下ろした。彼も向かいに静かに座ると、保温ポットに残っていた温いハーブティーを三つのカップに注ぎ、二人の前に差し出した。
言葉少なに交わされるその動作の一つ一つに、ハクの育ちや内面がにじみ出ていた。住環境は粗末でも、その仕草にはかつて政治家を志していた面影――誰かと丁寧に向き合おうとする、内に秘めた礼節が感じられた。




