第十節 失踪 ――前編:記録を辿る者たち 3
深夜の愛知湾岸中央水産研究所。中央研究棟・第二研究ブロックの一室──篁ミナトの研究室では、研究用アンドロイドとアシスタントアンドロイドが動き回り、仕事をしていた。人工照明が淡く床と壁を照らし出していた。
すでに武装暴動の影響で、研究所は休業措置が取られていた。
しかし、この時代の研究機関は高い自律性を備えている。燃料供給を必要としない自家発電システムが稼働し、水温管理も、飼育される水生生物への給餌や、その餌の製造に至るまでが、すべて自動化されていた。
研究員と職員がいなくとも、研究用アンドロイドと職員の業務をこなすアンドロイドの電源をオンにすれば研究すら回る。
そのため、人的な作業が止まっていても、取り替え不能な重要部品が故障しない限り、システムは静かに、だが確実に稼働を続ける。
「篁主任研究員、休職中の筈ですが、どのようなご用件ですか?」
研究用アンドロイドが聞いてきた。
「少し調べたいことがあるの。どうしても必要なことだから、目を瞑ってくれないかな?」
ミナトの言葉に、アシスタントアンドロイドが代わって答えた。
「あなたが誠実な人であることは私がよく存じています。あなたがそう言われるのであれば、私は何も見なかったことにします」
「ありがとう。恩に着るわ」
ミナトは端末の前に座る。青白い光に照らされながら、無言のまま大型のモニターと向かい合った。
ミナトの指が、無音のまま仄暗いキーボードを走る。照明の明滅すらなく静まり返ったラボで、唯一動いているのは彼女と、そしてバックグラウンドで稼働する無数のアルゴリズムだった。
彼女の目の前には、愛知湾岸中央水産研究所から密かに接続された旧式通信回線を通じて、不正にアクセスされた第七調整区画・統合隔離観察施設中枢サーバーのアクセスログが一覧となって展開されていた。
暴動と統一政府の介入により公式ネットワークが遮断されて以降、現在この研究所で利用可能なのは、反武装系境界人グループ〈ノー・エッジ〉がかつての住民インフラを再接続して構築した旧時代の独立回線のみである。
その回線を経由し、施設の隙を突いて潜り込んだデータルートから、AIが抽出・解析したパケット情報と、時系列順に並べ替えられた通信記録を前に、ミナトは眉ひとつ動かさずに見つめ続けていた。
第七調整区画は四方を高強度の複合材で覆われ、出入口は一箇所のみ、その出入りには統一個体識別コード(UIC)が記録され、すべての出入り者がデジタルで監視されるという強力な隔離地区で、統合隔離観察施設を二重に隔離する目的で作られていた。
「……何か出てきてくれるとありがたいんだけど」
ミナトの声は、ひとり言というよりも、自身の中の焦燥を抑える呪文のように漏れた。
だが──
AIは逐一、アクセスログを照合していく。施設内の誰が、いつ、どのサーバーにアクセスしたか。外部との通信はあったのか。その送信先は? データの受け手は? そのすべてを、網の目のように洗い出す。
第七調整区画内に設置された統合隔離観察施設サーバーのアクセス履歴と、第七調整区画管理部に設置された別系統のサーバーへのアクセス履歴、それら両者の出入りデータ、通信記録、ログインID、デバイスタグ──さらに、それらすべてを突き合わせて、AIは同一人物による重複アクセスのリストを形成していく。
しかし、そのリストに表示されたのは、ごく限られた職員たちによる、ごく当たり前のアクセスだけだった。しかも、すべてのUID、IPアドレス、マシンIDが整合性を保っており、疑わしい点は一つもない。外部との通信も、規定のバックアップサーバーへの送信を除いて完全に遮断されていた。
「やはり何も出ない、か……」
ミナトは絶望感を押し殺しながら、さらに踏み込んだ命令をAIに送る。
「第七調整区画及び統合隔離観察施設サーバー内のファイル群より、時系列の不整合が生じている記録、署名データの欠損、更新ログの二重化、または正規プロトコルから逸脱して書き換えられた形跡のあるファイルを抽出して」
AIが分析を始める。過去六ヶ月、九ヶ月、一年、二年──範囲を広げ、改ざんされた可能性のあるファイルを機械的に抽出していく。
だが、表示された一覧には、カミーユが既に見つけ出したものを除けば、システム更新時に自動生成される一時ファイルや、エラーによる無害な再書き込み記録ばかりが並ぶ。署名データはすべて正規、書き換え権限も明示されており、新たな不正の痕跡は皆無だった。
更に、アクセス者ログの中にIPアドレスを偽装して侵入した“踏み台”の存在がないかを確認する処理も、AIが念入りに行った。
使用されていた端末のMACアドレス、使用時間帯、ネットワークルート、トラフィック量──あらゆる観点から疑わしい動きを抽出したが、そこにも「人為的な不正」の匂いはまるでなかった。
「やっぱり駄目だったか……」
ミナトの瞳に、じわりと徒労が滲んだ。淡い期待は打ち砕かれた。
AIは最後に、関連するすべてのアクセス者、ファイル編集者、通信関係者のUIDを整理して報告するが、その中にミナトの知らない者はいなかった。すべて正規の研究職員、技術管理者、または上層の管理職のみ。
「何とか手を考えないと……でも、どうしたらいいのか、思いつかない」
ミナトはゆっくりと、背もたれに身を預けた。静まり返ったラボに、彼女の吐く息が小さくこだました。




