第三節 潮騒の裂け目 1
ある朝、レオはいつものように湾岸中央水産研究所へ出勤した。
冬の陽光が低く差し込む施設の廊下は、潮の匂いと消毒剤の混じった空気に満ちている。共同研究に参加する為、多層構造のラボエリアに足を踏み入れると、すでに何人かの研究員たちがコンソールに向かって忙しなく手を動かしていた。
レオの主な業務は、近海に設置されたバイオセンサー群によるリアルタイムの環境モニタリングと、変異性の高い海洋微生物群の観測・分類・報告である。人工海洋農場〈第二湾〉との連携もあり、日々のデータ処理は膨大だが、彼にとっては慣れたルーティンだった。
レオは白衣を翻しながら、自席のコンソールにログインした。操作パネルの下では、AIアシスタント〈Oru〉がすでに自動分析を完了させており、彼の作業を「補助」するどころか、半ば「代行」していた。
「今朝のデータ、すでに第三層アーカイブまで分類済みです」
「……ありがとう」
レオは端末に目を落とし、ほんの僅かに口元を動かした。Oruの声は冷静で、どこか人間味を模した調子を持っていたが、その実、彼の判断や直感を必要とする場面は日に日に少なくなっていた。
その時、背後で小さな笑い声が聞こえた。
「……またAIに仕事取られてるよ」
「でも、形式上“みなし超人類”でしょ? 本来ならこっち側の人間のはずなんだけどね」
「性能が追いついてないのよ。頭脳スコアも作業効率もAI以下なんだから、そりゃ言われるわよ」
声を潜めた囁きは、壁面パネルの反射を通してレオの耳に届いた。直接名指ししてはいない。だが、そこに含まれる意味はあまりに明確だった。
彼は何も言わず、手元のバイオデータに集中するふりをした。
表示される海水温の変化、塩分濃度、プランクトン密度の異常。これらの微細な変動にこそ、人間の経験と判断力が生かされる場面があるはずだった――かつては、そう信じられていた。
だが今や、AIが「誤差を含めた予測」までカバーする時代。
トランス・ウルトラ・ヒューマンでさえ、神経インターフェースを通じて数倍の速度で解析と対応が可能になっている。
(現生人類、それも中途半端な立場の俺が、ここにいる意味は……)
毎度のこととはいえ、今日は調子がよくなかったのか、ネガティブな言葉が脳裏を過る。
レオは、ふと手を止めた。
――自分は、単なる予備装置にすぎないのかもしれない。
そう思ってしまった瞬間、背筋に微かな冷気が走った。
それでも彼は立ち上がることなく、黙々とデータの層を掘り下げていく。
それが、彼に残された唯一の「意志の証明」であるかのように。
そんなふうに、静かで乾いた違和感を含んだ日常が、今日もまた続いていく――はずだった。
しかし、その日は何かが違っていた。
端末を立ち上げた瞬間、モニターの片隅に“アクセスログの不一致”という警告が点灯した。通常、研究データは完全に内部ネットワークで管理され、外部からのアクセスは一切遮断されている。にもかかわらず、今朝未明、レオ個人のIDコードを用いて誰かが一部の機密ファイルにアクセスしていた形跡が残されていた。
「……冗談だろ」
セキュリティログを遡っても、端末のマシンアドレスやログイン場所が示すのは、確かにこの研究所内だった。つまり——誰かが内部から、自分のIDを使って情報を引き出したのだ。
だが、ひとつだけ奇妙な点があった。
アクセスの末尾、ログファイルのコード列に、内部ネットワークでは通常見かけないプロトコル識別子が含まれていた。それは、統一政府系列の高軌道研究拠点——〈エリュシオン・ノード〉で使用されている独自規格に酷似していた。
レオは、慎重に周囲を見渡した。無表情でコンソールを操作する同僚たち、何も知らない顔で談笑する助手たち。その中の誰かが……?
それとも——この研究所の外から、あの軌道上の研究拠点が、何らかの方法で内部システムに侵入したのか……?
そのとき、研究所内通信システムの端末が小さく点滅した。プライベートチャンネルに、匿名の送信者から短いメッセージが届いていた。
【記録:インシデント289-L】
“湾岸近海、変異アクチノバクテリア群の遺伝子構造に非自然改変の痕跡を確認”
——観測元:〈エリュシオン・ノード〉衛星ラボ系列
〈エリュシオン・ノード〉。
その名を目にした瞬間、レオの背中に冷たい汗が走った。
なぜ、あそこがこの研究に干渉してくる?
それに、今朝未明の不正アクセスと、まるで呼応するようなタイミングでこの情報を送ってくるのは——偶然なのか?
いや、違う。これは明確な意志を持っている。あの軌道拠点は、何かを知っている。いや、それ以上に——
レオの思考に、緩やかな疑念がよどんでゆく。自分の研究が、見えないところで利用されているのではないかという、決して無視できない兆候がそこにあった。




