前編
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「それは捨ておけ」
思わずそう口にしたのは、泥まみれの状態にもかかわらずどこまでも煌めく金の瞳が彩を失ってしまうのが惜しいと思ったからか。
それとも……。
敵兵に身一つで囲まれて、それでもその生を諦めない力強さを、輝きを失わない金の瞳が……羨ましいと思ってしまったからか。
「ですが姫様……。子供と言えどこの国の人間は一人残らず殺せと命を賜っておりますれば……。しかもこやつは男。
女はともかく男は生かしておいては……」
「人っ子一人いなくなった荒地など手に余ろうて。陛下は何をお考えなのか……」
私の言葉に、少年を手に掛けようとしていた男が舌打ちせんばかりの表情になる。
「姫様……っ! いくら陛下のお血筋と言えど! 言っていいことと悪いことが……っ!」
「うるさい奴よ。とりあえずそれは捨て置け。これは上官命令だ」
馬上から睥睨してやれば、顔を真っ赤にして怒り狂う男の姿があった。
「っ! 捨て駒姫が偉そうにっ!」
そう言って男は持っていた曲刀を振りかぶる。
その切っ先がたどり着く先は……。
「かひゅ……?」
曲刀を振りかぶったまま硬直した男の身体。
一拍の後、その喉元から真っ赤な血が吹き出し、鎧から覗いていた胡服の白い襟を染め上げた。
ざわりと騒めく周囲の視線に晒されながら、男の身体は傾いでいき、重たい音を立てて大地に伏した。
「命令に従わぬ兵など敵国の幼子より厄介だ」
ひゅっと愛刀を払えば、少し離れた地面を赤い水滴が穿つ。
赤黒い血の持ち主は、だらだらと生の証を垂れ流し、ビクビクと痙攣を繰り返しながら大地を穢していた。
困惑が広がる周囲を睥睨する。
「例え私がどこで誰に何て呼ばれておろうと……今ここで兵を率いているのは私だ」
理解っておるな? と告げてみれば周囲の反応は見事に割れた。
受容と敵意。
相反する空気がその場に流れる。
所詮、現王が戯れに平民の召使に手をつけて生まれてしまった庶子。
姫将軍と持ち上げられようと、例え王家の血が流れていようと、王族の証である黒髪と血のように紅い瞳を持っていようと、半分は卑しい血だと蔑まれることは今更だった。
「……まだいたのか。とっととどこへなりとも消えるがいい」
自らを殺そうとした男が血飛沫をまき散らして物言わぬ躯となったのを呆然と見つめていた少年にそう告げれば、私よりいくばくか年若いであろうやせ細った身体は弾かれたようにその場から立ち去っていった。
それをどこか眩しいもののように眺めていると、蹄の音が近づいてきた。
「……どうした?」
「……よろしかったのですか?」
側近の男が尋ねたのは、果たしてどちらのことだっただろうか。
逃がした敵国の少年か。
……仲の悪い兄が寄越した内通者を殺したことか。
「……どうとでもなるだろうよ」
そう。
どちらもどうとでもなる。
あの少年は生き延びるかもしれないし。
運悪く別の部隊にかち合って殺されるかもしれない。
私は兄によって殺されるかもしれないし。
生き延びてしまうかもしれない。
それはもはや……私にとってどうでもいいことだった。
先月迎えた成人とみなされる十五の年をもって、名ばかりの将軍という地位を与えられ、死んでこいと言わんばかりに隣国との戦に駆り出された今。
いついかなる時に我が身がどうなろうと……もはやどうでもよかった。
それから五年後。
決着がつかぬまま無駄に長引いていた隣国との戦は、一年ほど前に台頭した隣国の『金獅子』と呼ばれる将軍の手によってあっという間に終結した。我が国の敗北をもって。
そして今。
数多の隣国の民を手に掛けた『紅蓮の鬼姫』こと私は、敵国の捕虜となり明日をも知れない身に……なるはずだったのだが?
「……どうして私はここにいるんだ?」
王族の姫だったはずの頃でも着たことのない、高価な絹でできた真っ白な婚礼衣装を纏って立つのはこの国の礼拝堂。
この国の意匠であるきゅっと絞った腰回りと、その下にふんわりと膨らむ床に届きそうな程長いスカートの裾を踏まないように歩みを進めた先には、同じく真っ白な婚礼衣装を身に付けた男が立っていた。
その男に手を引かれ、婚姻の誓いを立てる。誓いの証だという口づけは、僅かに唇を触れ合わせるだけだった。
それをもってどうやら私こと紅鈴は金獅子将軍と呼ばれるこの男の妻となったらしい……。いやなんで?
「俺があなた様を望んだからですよ。紅蓮の姫君?」
綺麗に設えられた寝台の上。
湯殿でピカピカに磨き上げられた身体をこれまたお高そうな夜着に包んだ状態で頭を抱えていると、柔らかな男の声で答えがあった。
「……いやどう考えてもおかしいだろう。ではなくおかしくはございませんか?
国を勝利に導いた栄誉ある将軍の元に、敗戦国の王族の血を引く姫、まして今の身分は捕虜でしかない人間を嫁すなど正しい判断ではございません。
今からでも遅くはありません。どうぞこの首を掻っ切るなどして、こんな婚姻……無効にしてくださいませ」
寝台の上を這うようにして男に近づき、ヒラヒラした薄布から覗く首筋を晒す。
そして覚悟を決めて目を瞑る。
あぁ……。早く終わらせてくれまいか……と願いながら。
ふっと僅かに息を吐く音と共に衣擦れの音が近づいてきた。
ドキドキと高鳴る胸は今にも弾けそうだ。
早く早くと願っていれば、首筋に掛かる男の指の感触。
『紅蓮の鬼姫』などと呼ばれ戦場を駆け抜けた身ゆえど、首など鍛えようもない。
同じく戦場を駆け抜けてきた武骨な男の手にかかれば手折るなど容易いこと。
ぽきりと折れば血も出ず、真っ白な寝台も汚さず良いことずくめだ。
力の差をありありと感じさせる男のカサついた指が触れた時、ふっと私の身体から力が抜けた。
あぁ……やっとおわる……。
「っ!」
男の息を呑む声が聞こえ、私の頸動脈に触れていたはずの指が伸びて、私の頬を包み込んだ。
「……そんな表情をしないでください。死を安寧と受け入れないでください。
俺は……貴女が欲しくてここまで生き延びてきたのですから……」
「……え?」
思いがけない言葉に目を見開く。
目の前には優しく眇められた金の瞳。
キラキラと生気に輝く瞳に重なるのは……あの日の金髪に金の瞳の少年の姿だった。
恐らく己よりいくばくか年下のやせ細った少年が走り去っていく光景が、眼裏にありありと浮かび上がる。
……そう言えば、目の前の夫となった人物も二つほど年が下だったか。
「……もしかして?」
「思い出して……くれましたか? あの日貴女が救ってくれた命のことを……」
「だからって……」
彼にとっては憎き敵国の支配者の、その血筋である事があからさまな深紅の瞳が揺れているのが自分でも分かる。
困惑のままに目の前の男を見上げれば、そこには金の髪に金の瞳をした青年がいた。
今日、私の夫となったらしい青年。その名をライナルト・リーフェンシュタールという。
さっき誓いの署名をした時に知った名だ。
普段の彼は『金獅子将軍』と呼ばれている。
その勇猛さは近隣諸国に鳴り響くほどで、長年膠着状態だった我が国との戦況を次々とひっくり返し、我が国はあっという間に制圧された。
と言っても、客観的にみればそれは我が国にとって決して悪いものではなかった。
好戦的な父や兄、顔も見たこともない正妃たちはどうだったか知らないが、長引く戦に民達は疲弊していた。
……もう生きる気力すら削られるほどに。
男は老いも若きも駆り出され、残った女子供だけで生活するには苦しすぎた。
度重なる物資の徴収に、生きるか死ぬかの瀬戸際は確かに見えていた。
そのような中、金獅子将軍の策によって戦場に招き出された高位の人間は次々と捕縛され、残された父と兄だけでは城を守ることすらできず、あっという間に城は落とされた。
その時父王は討たれ、正妃や弟妹たちも自らその命を絶ったらしい。特に兄はどこぞで恨みを買っていたらしく、誰にやられたのか死体はズタズタに切り裂かれていたそうだ。
それをそうか……とあっさり受け入れてしまえるほど、彼らは私にとって血が僅かに繋がっているだけの遠い存在だった。
王族はそんな状況だったが、この国の兵たちが我が国の民だった人間に無体を働くわけでなく。
むしろ今までより命の保証のある生活を与えられ、安堵した民も多かったことだろう。
……我が国の兵たちはこの国の民に略奪などの暴虐の限りを尽くしたというのに……。
私自身とある戦場で『金獅子将軍』と相まみえ、ふとした拍子に一撃を喰らい、気づけばどこかの屋敷に監禁されていた口だ。
庶子とはいえ、将軍職を賜りこの国の民と戦を行ってきた人間だ。
いつの日か裁かれる日が来るだろうと思っていたのに……。
気づけば、戦の立役者である『金獅子将軍』の花嫁とは……これ如何に?
いや本人曰く、私がいつの日か気まぐれに命を救った……と言うか、見逃した相手らしいが……。
「やっぱりおかしくないか?」
はて? と首を傾げていると、私の頬を包み込んでいた大きな手にくっと力が入って上向かされた。
「おかしいことなど何一つないですよ。あの日俺は貴女に救われた。
俺なんかの命を救う為に、あの兵を殺したせいで、貴女自身がますます命を狙われる結果になったというのに……」
「……よく知ってるな」
そう、あの日見せしめとして手に掛けた兵は兄の間者だった。
理由が理由だったのと、明確に兄に逆らったのがあの日初めてだったということもあり、あの日以降兄からの攻撃は苛烈なものとなった。
そこには、『紅蓮の鬼姫』として戦場をかけ、自軍敵軍ともに人的被害を最小限に抑える戦略をとり、略奪などの非人道的な行いを禁止したことによって、一般的な感覚を持つ兵士たちの間で私の評判が上がっていったことも関係していたのだろうが……。
だが……。
王族の贅のために無辜の民達を危険に晒すわけにはいかなかったのだ。
例え名ばかりの王族、誰にも認められていない王族の端くれだったとしても。
「だから......俺、頑張ったんです。いつか貴女をあの地獄のような環境から救い出すために……。
貴女に見逃されて生き延びた後、一兵士として志願して……いつか貴女を手に入れる為に……」
「それ……はありがたいが……」
僅かに眇められた金の瞳の奥に、ギラギラととした不穏な光を感じて、ぞわりと背が粟立つ。
それはまるで獲物を狙う肉食獣のようだった。
「戦に勝った褒美には敵国の『紅蓮の姫君』を……とずっと訴えてきましたからね。
俺を識る者たちからすれば、貴女は俺に捧げられた生贄にも等しいんですよ。あぁ、俺の副官は『首輪』だと言ってましたね。貴女を与えておけば、大人しく繋がれてやると約束したせいでしょうか? ……ね?」
ぺろりと男の口元から赤い舌が覗く。
舌舐めずりするようなその仕草は……目の前の獅子のような男によく似合っていた。
……但し、獲物が自分でなければの話で。
ころりと寝台に押し倒され、はだけた夜着の隙間から熱い手のひらが滑り込む。
気づいた時には既に遅く。
大きく咢を開いた目の前の猛獣に、私は文字通り食い散らかされたのだった。