三時四十五分の森で、君は名前を無くした。
その日、僕は通学路の途中で“時間を食べる鳥”に出会った。
「お前、今日の三時四十五分、要る?」
制服の襟を掴まれたまま、僕は彼女を見つめた。赤いマントに銀の留め具、片方だけの黒い手袋。見た目は高校生くらいだけど、目の奥に宿ってる光がどうにも尋常じゃない。
「いや、要るか要らないかって……時間ってそんなに軽いものだっけ?」
「要るなら、よけて。食べるから」
彼女の肩に止まっていた青銅色の鳥が、カチカチと嘴を鳴らす。その音は、どこかで聞いたことがあるような、不思議な懐かしさを含んでいた。祖母の懐中時計の音に、よく似ていた。
僕がためらっていると、彼女は一歩、踏み出した。
「ここから先、時間が歪んでるの。鏡の森に入るには、余分な時間を持ってちゃダメなのよ。吸われるから」
「鏡の森……?」
「異世界とか、そういうチープな言い方は好きじゃないけど。まあ、言ってしまえばそういうことね。現実の裏側で、こぼれた物語たちが溜まってる場所」
彼女はそう言うと、まるで慣れた様子で道路脇の古びたガードレールをまたいだ。その先には、誰も通らないような獣道が続いている。風も音も、急に遠くなった。
僕は迷ったふりをして、ついていくことにした。理由は簡単だ。
時間を食べる鳥に出会ったなんて、面白すぎて誰にも言えないじゃないか。
---
最初の違和感は、音だった。森に入った瞬間、周囲の音が一つずつ、レコードの針を外したみたいに消えていった。鳥のさえずり、風のざわめき、僕の足音でさえ、吸い込まれていく。
「ここでは、名前が先に失われるの。気をつけて」
「名前?」
「物の、ね。たとえば“葉っぱ”が“緑のヒラヒラしたやつ”になり、“道”が“足元の続いてる何か”になる。そうなると、帰れなくなる」
「じゃあ、どうすれば?」
彼女は少し考えてから、ぽんと僕の額を指で弾いた。
「そういうときは、物語に頼るのよ。名前を持ってるものは、物語を持ってる。忘れかけたときは、物語を思い出す。いい?」
僕が返事をする前に、森の奥から、誰かの声が聞こえた。
――“君、時計を知らないかい?”
現れたのは、帽子をかぶった猫だった。縦縞のベストに懐中時計をぶら下げているが、時計の針はぐるぐると逆回転を続けていた。
「この猫、現実にいるやつ?」
「まあ、森の住人。時計を失くして時間を逆に生きてるから、話すときも時々過去から来るの」
「君、知らないかい? 時計を……」猫はまた言ったが、その声は明らかに一分前の口調と同じだった。
その瞬間、森の奥から何かが這い出してきた。
ガシャ、ガシャ――。ガラスの破片でできたような、キメラのような影。
「忘却獣よ、走って!」
少女が叫び、青銅の鳥が一声カチリと鳴いた。
僕は彼女の手を掴み、夢中で走った。後ろで何かが弾ける音がして、時間が逆巻いていた。
ありがとう、それでは第三章をお届けします。今度は“止まった時間の図書館”で、物語の核心に少しずつ迫っていきます。
---
逃げ込んだ先は、森の中とは思えないほど静かで広い空間だった。
「図書館……?」
本棚がいくつも並び、天井には大きな振り子時計がぶら下がっている。だが、時計の針は十二時で止まったまま、まるで動く気配がなかった。
「ここは“止まった時間の図書館”。この森の最深部に近い場所よ。ここには、まだ名前を忘れられていない物語が集まってる」
彼女が棚を撫でると、埃がぱっと舞い上がる。その中に混ざって、いくつかの文字が浮かび上がった。「タビノモクテキ」「ワスレラレタセカイ」「ボクノナマエ」。
「……俺の名前?」
「そう。あなたも少しずつ名前を奪われてる。森に入ったときから、“僕”という物語しか残っていないの。だから、本を読まないと」
彼女が指さした先には、古びた革の表紙に「記憶の書」とだけ書かれた分厚い本があった。手を伸ばすと、本はまるで待っていたかのようにパタンと開いた。
そこに記されていたのは、“僕”の見たこともない過去だった。
――八歳の冬、時計屋で青銅の鳥を拾った。
――十三歳の秋、鏡に映らなくなった猫と話をした。
――十五歳の夏、名前を失くした姉が姿を消した。
ページがめくられるごとに、僕の頭の中で誰かの声が蘇ってくる。けれど、それは僕自身の記憶ではなかった。
「これ……俺の話なのか? それとも誰かの?」
「物語は混ざるの。忘れられた物語は、新しい語り手を探してる。だから、あなたが選ばれたの」
その時、図書館の入り口でガラスの破片が散る音がした。忘却獣が、扉を砕いて入ってくる。
「このままじゃ、全部の物語が――」
「間に合う。まだ“始まり”が残ってるから」
少女は懐から、壊れた懐中時計を取り出した。青銅の鳥がそれに嘴を当てた瞬間、図書館の時計がカチリと動いた。
「時間を、始めるわよ」
図書館の奥に、古びたエレベーターがあった。天井からぶら下がるロープを少女が引くと、かすかな振動とともに、下へと沈み込むように動き出した。
「ここから先が“始まりの部屋”。森の最初のページよ」
「最初のページ……?」
「すべての物語は、ここから始まるの。名前を得て、時間を得て、形になる。だけど、その代わりにいつか“終わり”が来る。だから、奪われる前に戻さなきゃいけないの」
エレベーターが止まり、目の前の扉がゆっくりと開く。
そこには、真っ白な空間が広がっていた。まるで何も描かれていないキャンバス。唯一、中央に浮かぶように存在するのは、一冊の小さな本だった。
「……俺の物語?」
「違うわ。“あなたが選ぶべき物語”。何にでもなれるけど、何も選ばなければ、ここに吸われて終わる」
少女がふっと微笑んだ。その顔を見たとき、僕はふいに理解した。
「君……“姉さん”なのか?」
彼女は答えなかった。ただ、少しだけ顔を伏せ、そして小さく頷いた。
「名前を失った私は、“物語”になった。記憶の中にしかいられなくなった。だから、あなたにここまで来てもらったの」
「でも、なんで……俺なんだよ」
「あなたにはまだ“選ぶ力”があるから。誰かの物語をなぞるんじゃなく、自分の言葉で語れる人だから」
少女が手を伸ばす。その先にあった本の表紙には、かすかに文字が浮かび上がる。
『ユウトの物語』
見た瞬間、僕の中で何かが繋がった。青銅の鳥、猫、時計、そして姉の笑い声。
すべてがひとつの名前に収束していく。
「さあ、選んで。忘れられるか、語り継ぐか」
僕は手を伸ばし、本の表紙をそっと開いた。
---
お待たせしました。それでは、いよいよ最終章です。これまで散りばめた伏線を結び、ユウトの選択が世界を動かします。
---
ページを開いた瞬間、白い空間に色が流れ込んだ。インクのしぶきのように、風景や音、言葉たちが“始まりの部屋”を満たしていく。
僕は、その中心で立ち尽くしていた。
――ユウトは、時計を直した。
――ユウトは、姉の名前を思い出した。
――ユウトは、自分が物語の語り手であることを選んだ。
「……これが、俺の選んだ“現実”なのか」
「ううん、これは“あなたが作る物語”よ。語られる限り、忘れられない」
姉――だった少女が、青銅の鳥をそっと手放した。鳥は、ひと鳴きして宙を舞い、図書館の時計へと飛んでいく。
その瞬間、止まっていた振り子が、ゆっくりと――でも確実に、動き出した。
カチ、カチ、カチ。
“忘れられた時間”が再び進みはじめた。
図書館の本たちは、一冊ずつ震えながら自らのページを開き、言葉を取り戻していく。森の空気が色を取り戻し、音が戻り、風が吹いた。
「もう……行けるの?」
「うん。でも、お別れじゃない。これからは、あなたの中にいるから」
少女は微笑んだまま、ゆっくりと霧の中に溶けていった。まるで物語の最後の一文みたいに、綺麗に、静かに。
気づけば、僕はいつもの通学路に立っていた。
時間は三時四十五分。
ポケットの中には、壊れた懐中時計と、小さな紙切れがあった。
“語れ。忘れるな。”
僕は深呼吸をして、一歩踏み出した。
これから先、誰に話しても信じてもらえないかもしれない。でも、それでもいい。
語られる物語は、世界をつなぐ。
たとえ誰かの心の中でだけでも、生き続けられるなら。