リバーサイド・カフェ
スマホの地図アプリを頼りに、お目当てのカフェを探した。
隅田川の支流沿いに建つ『リバーサイド・カフェ』は、陸屋根のこじんまりとした平屋で、軒先のテラス席に四十代半ばぐらいのおっさんが足を組んで座っていた。
いかにも業界人でございます、といった風情のおっさんは、似合わないサングラスをかけ、ニットのセーターをプロデューサー巻きにしている。
ずいぶんトレンディーなポーズをしているが、たるんだ腹のせいで台無しだ。
リバーサイド・カフェと軒を並べたお隣は、アニメーション・スタジオ『ハバタキ』と書かれた看板が掲げられており、三匹のカラスっぽい黒ずくめのキャラクターが描かれている。
目は金色で、カラスにしてはずんぐりむっくりしているし、池に浮かんでいるからおそらくカラスではなさそうだ。三匹のうち一匹は直立していて、ペンギンっぽくも見える。
アニヲタのつばめがやけに興奮気味に写メを撮っているが、お姉ちゃんはすでに及び腰だ。
「あのスタジオ、知ってるの?」
つばめに訊ねたが、「知らん、動物アニメはあたしの守備範囲外」と即答した。
「じゃあ、なんで写メってるの」
「いやあ、いいじゃん。あのふてぶてしい感じ」
つばめが言っているのが、あの看板のキャラクターのことなのか、テラス席のおっさんのことなのかは、よく分からない。見たところスタジオに人の出入りはなく、あまり儲かっている感じではなさそうだ。カフェは間口が狭く、客の入りも定かではない。
カフェの斜向かいにある図書館近くからぱしゃぱしゃ写真を撮っていると、おっさんが盗撮に気付いたらしく、じろりとこちらに視線を向けてきた。
「……やべっ」
なにがやべえのかは知らないが、つばめはいきなりアリサの肩を引き寄せると、自撮り風にポーズをして、仲の良い女子中学生二人組をとっさに演じた。つばめはいまだに眼帯を外しておらず、どこをどう切り取っても不審人物である。
「眼帯外しなよ、つばめ」
「やだ、まだ魔力が溜まってない」
いかにもパリピっぽいピースサインをしながら、それとなくお姉ちゃんに「先に行って!」と合図を送る。魔力充電中の眼帯少女と同類だと思われてはあんまりだから、すこし時間差をつけて入店することにする。
お姉ちゃんはカフェへ行くのにためらっていたが、ようやく意を決して歩き出した。
つばめと表面上だけいちゃつきながら、何食わぬ顔をしてウロウロしていると、公園の先に交番があった。お巡りさんが交番内に座っていて、つばめとアリサを見て、ぴくっと顔をしかめた。つばめのカーディガンの袖を思いきり引っ張って、図書館の方へリターンする。
「もういいよ、そろそろ行こうよ」
「あのふてぶてしいやつ、キンクロハジロっていうらしいよ。へー、カルガモの仲間なんだ。三兄弟でキン、クロ、ハジローだって。うわっ、すげー安直なネーミング。ダサすぎて、一周回ってセンスを感じるね」
つばめはごくごくマイペースに、看板に描かれたキャラクターの名前を検索していた。
「カルガモって黒いの? どう見てもカラスじゃん」
「あの三兄弟はハバタキ弐号とかいう戦艦の乗組員で、波動砲をぶっ放すらしいよ。波動砲の別名が作画崩壊砲、……やべえ、ウケるっ!」
つばめが膝を叩いて大笑いしているが、なにが面白いのかさっぱり分からない。
「そろそろ行くよ。お姉ちゃんが待ってる」
つばめをせっついてみても、スマホ画面に夢中でぜんぜん動こうとしない。
こやつを強制的に歩かせる魔力が欲しいのだが、アニヲタではないので無理な相談だ。
お姉ちゃんはもう店内にいるかなと思ってカフェの方を見ると、驚きの光景がそこにあった。
「ちょっと、つばめ! あれっ!」
つばめの首をがくがく揺すると、さすがにスマホから注意が逸れた。
「あん? なんだよ」
つばめはかったるそうに首を巡らせ、それから口をあんぐりと開けた。
「……どーいうこと?」
「それは私が聞きたい」
小さな丸テーブルがひとつだけのテラス席で、お姉ちゃんと例の中年プロデューサー巻きが向かい合ってコーヒーを飲んでいる。
傍目には、年の差カップルが楽しげに談笑しているように見えなくもない。
「お姉ちゃんが連絡先を交換したのって大学生のはずだよね。どう見てもおっさんじゃん」
「なに、あれ。援助交際? それともパパ活?」
「女子校で純粋培養されすぎて、二十歳と四十歳の男の見分けもつかなくなっちゃったのかな。お姉ちゃん、目が腐っちゃったのかな」
「もしかしてあのおっさん、こいつじゃね?」
つばめは、ありさの眼前にスマホを差し出した。ハバタキのスタッフ紹介ページには、作画監督/アニメ・プロデューサー/演出/原案、その他、ごちゃごちゃと肩書きが並んだ最後に「響谷一生」と書かれ、キメ顔のおっさんのプロフィール写真が添えられていた。
その他のスタッフに顔写真はなく、響谷を除いた全員がイラストだ。
ずらっと列挙された肩書きの多さと、露骨なキメ顔の写真にナルシストっぷりが垣間見えた。
「どーするよ、アリサ」
「魔力発動して、宇宙の果てまでぶっ飛ばしてくれてもいいよ」
道端会議をしていると、プロデューサー・響谷が立ち上がり、わずかに遅れてお姉ちゃんも立ち上がった。響谷は信じがたいぐらいなれなれしくお姉ちゃんの背中に手を添えると、そのままカフェの中へと入っていった。
誘導されたお姉ちゃんもお姉ちゃんで、特別に嫌がるような素振りもなかった。
アリサもつばめも呆然とその場に立ち尽くし、どちらともなく顔を見合わせた。
「どうする、アリサ。潜入ミッションしとく?」
「行くしかないじゃん。お姉ちゃんの貞操の危機だよ」
「じゃあ、先行けよ」
「やだよ、つばめが先行けよ」
お互いに先を譲り合い、結局二人して同時に店内に足を踏み入れた。
こじんまりした店内には髭面のマスターが一人おり、奥まった席に響谷とお姉ちゃんの姿があった。響谷の隣に華奢な背中が見えるが、こちらに振り向かないので顔までは確認できない。
黒看板のメニューには、白いチョークで六種類のコーヒーの産地が書かれている。
ペルー、ドミニカ、エチオピア、ミャンマー、ケニア、フィリピンとあるが、なにがどう違うのかよく分からない。
説明書きはなく、かろうじて分かるのはラージ・サイズは+100円ということだけ。
注文どうしようか、と思ってつばめを見ると、つばめはさっさと注文を済ませた。
「ドミニカとエチオピア、ひとつずつ。んじゃ、会計よろしく」
アリサが会計をしている間、つばめはまったく物怖じせず、響谷たちの隣卓に席を確保した。
やっぱりこいつ心臓に毛が生えてるよな、と思いながらセルフサービスの水をふたつ持って、つばめの隣に腰掛けた。おかげで、ごく至近距離に響谷の顔が見えた。
アリサはコーヒーまだかなという顔をして、響谷の隣に座るぶかぶかのパーカーを着た男性の顔をちらっと覗き見た。
眠たげな目をした猫っ毛の男の子で、ほとんど無言でプリンをぱくついている。
響谷の息子というにはずいぶんきれいな顔立ちをしていて、さっぱり似ていない。大学生というには幼すぎる気がした。高校生か、へたしたら中学生ぐらいに見えなくもない。
ひたすら胡散くさいプロデューサーとは違って、ひたすら人畜無害そうな感じがする。
さりげなくお姉ちゃんの様子をうかがうと、ほんのりと頬を桜色に染めていて、初恋の男の子に会っちゃいました、みたいな甘酸っぱい雰囲気が滲み出ている。
同年代の男子に触れるのは初等部以来だから、お姉ちゃんの思い描く理想の男子像も幼いままで、それっきり更新されていないのだろうか。
お姉ちゃんって、こういう線の細い子がタイプなんだと思っていると、つばめが言った。
「ねえ、あたしもプリン食べたい。アリサ、買ってきて」
ここぞとばかりの上目遣いでおねだりしてきたが、さっぱり可愛くない。往復電車賃二千円は各自持ちだが、コーヒー二杯で千円弱、その上プリンまでたかるつもりか。
「私の小遣い、月に三千円なんですけど。破産するわ」
「えー、せっかく来たのにぃ。プリン、食べたあい。プー、リー、ンー」
つばめは駄々っ子のようにジタバタしているが、きっぱり無視。
コーヒーができたようなので、カウンターまで受け取りに行く。セルフサービスのようだが、ミルクも砂糖も用意されていないのを見ると、そのままブラックで飲め、ということらしい。
つばめの目の前にカップ入りのコーヒーを置くと、ぱたぱたと扇子を扇ぐ仕草をした。
「苦しうない。余はプリンをご所望じゃ」
「うるせー、余」
「砂糖とミルクは?」
「なかった」
「えー、このまま飲むの」
つばめは渋々ブラックのまま飲むと、「あちっ」と言い、「にがっ」と続けた。
「ん、交換」
飲みかけのコーヒーを交換したが、味の違いはさっぱり分からなかった。
つばめの感想は、やっぱり「にがっ」だった。
コーヒーをブラックで飲めるようになったら大人だとよく言われるが、私もつばめも味覚はまだまだお子ちゃまのようだった。
つばめは「口直し」と言って、プリンを買い求めに行った。ようやく自腹を切る気になったらしい。半分くれたら褒めて遣わすが、独り占めしたら死刑に処す。
苦いブラックコーヒーをちびちび飲みながら、隣のテーブルの会話に耳を澄ませた。
「女子校育ちかあ。響きがいいよねえ、女子校って。秘密の花園みたいでいいよねえ」
響谷だけが喋り続けており、人畜無害少年の肉声はいまだ聞こえてこない。
お姉ちゃんもお姉ちゃんで、「はい」とか「ええ」とか、「そんなことないです」とか、相槌を挟むばかりだ。手は膝の上にきちっと置かれ、視線はうつむいたまま、もじもじしている。
もしかして、隣に私とつばめが座っていることさえ気がついていないのだろうか。
「ハルちゃんは共学だっけ。ああ、共学だったよね。緋ノ宮学園だもんね」
少年がハルちゃんと呼ばれていることだけはかろうじて分かったが、それ以外はほとんど、ただの雑談だった。プリンを食べ終えたハルちゃんは、ナプキンで口の周りを拭いた。
「つかぬことをお訊ねしますが」
やたらと丁寧な口調で、お姉ちゃんに話しかけた。
「は、はい」
問われたお姉ちゃんがぴんと背筋を正した。
ハルちゃんはちらりと私の目を見て、それからお姉ちゃんの方に向き直った。
「あちらは妹さんですか」
「……え?」
お姉ちゃんはようやく私とつばめの存在に気がついたらしい。お姉ちゃんが答えるのに先んじて、つばめが口を開いた。いつのまにかプリンを完食しており、一口さえもくれなかった。
「どうもこんちわ、入谷つばめです。こっちはエリサちゃんの妹のアリサ」
つばめは平然とお姉ちゃんの隣に座った。
アリサだけがぽつんと取り残されてしまい、しょうがないので椅子を持って隣のテーブルに乱入することにした。
「なんで妹だとわかったんですか」
アリサが訊ねると、ハルちゃんは淡々と答えた。
「飲み会のときに妹がいることを聞いていたので。喋ったときの本人の口調と、メールの文体が違いすぎるので、メッセージは妹さんが代筆してたのかなと思ってました」
「あれ書いたの、あたしです」
代筆者のつばめがあっさり名乗り出ると、ハルちゃんは「でしょうね」と答えた。
「すごいっすね、文章だけでなりすましが分かるんすね」
「ええ、まあ。あからさまに違ったので」
根が単純なつばめは、きらきらと尊敬のまなざしを向けている。
しかし、片目は眼帯に覆われているのは相変わらずだ。
「どうしたの、その眼帯。魔力でも充電してるの?」
響谷が訊ねると、つばめは満面の笑みを浮かべた。
「イエース。すごいっすね、よく分かりますね」
「そりゃあ、ぼかあアニメのPだからね」
「すごいっすね、三次元のPってはじめて見ました。感動っす!」
「そう? じゃあ、ついでにスタジオも見ていく? 案内するよ」
「マジすか! 見たいっす、ちょー見たいっす!」
いきなり意気投合した響谷とつばめは、カルガモの親子のように一列に並んでスタジオ見学に行ってしまった。
置いてけぼりを食らったハルちゃんは、気まずそうにずずっとコーヒーを啜った。
うるさいのが消えていなくなると、他に客のいない店内は一気に静かになった。
ハルちゃんは苦そうにコーヒーを啜っているだけで、お姉ちゃんも話しだす素振りがない。
どちらが先に沈黙を破るかのゲームでもしているみたいだ。
「お姉ちゃんとはどういう関係なんですか? 大学生なんですか? 小説家なんですか?」
年齢不詳、正体不明のハルちゃんの素性を少しでも知っておこうと、質問を重ねた。
「藤岡です、藤岡春斗」
さらっと名乗った。
大学生なのか、小説家なのか、という質問には、ただうなずくだけだった。
「お姉さんとはインカレサークルの飲み会で一回会っただけです。騒がしいところは嫌いなので参加するつもりはなかったけど、響谷さんに無理やり拉致されました。あの人は大学関係者でもなんでもないけど、学生と飲んだり騒いだりするのが好きなんです」
抑揚の乏しい、落ち着いた口調の端々に人見知りな感じがぷんぷん漂っていた。
「それで、お姉ちゃんと喋っていたんですか」
「響谷さんがいるあいだは脱走できないので、飲み会のなかでいちばんつまらなさそうにしている人のところに避難してました。お姉さんの周囲だけ静かで、とっても平和でした」
テーブルの端っこで、お姉ちゃんはウーロン茶、春斗君はコーラを飲み、ぽつぽつと話していたという。
騒がしい飲み会の場で、そこだけが異質に静かだったようだ。
「ふつう、いちばん楽しそうにしている人のところに行きませんか」
「飲み会を心から楽しめるのは人生に疑問がない人です。僕はそういう人とは仲良くできない。たんに性格がひねくれているだけですよ」
優等生の麻乃も静かだが、それとはまた違った種類の静けさに思えた。
電車に乗っている道々で、「言葉が人間を作るのだ」という考えが降って湧いたが、小説家という職業こそ、言葉を作る人間の代表だ。
独特な感性を持ったこの人が、お姉ちゃんに興味を示したのは必然のような気がしてきた。
人生に疑問があるか否か、という点で言えば、お姉ちゃんの頭のなかは疑問だらけだろう。
今は暫定的にバスケから離れているが、お姉ちゃんはまだバスケに未練があって、いちど離れてしまったからこそ、さらに恋しく思っている。一途な想いを断ち切れずにいる。
この先、復帰するのか、完全に辞めるのか。
シェイクスピア風に言えば、生きるべきか、死ぬべきか、それが問題なのであるが、お姉ちゃんの場合はどっちを選んだところで死が待っている。死の様態が微妙に異なるだけだ。
「藤岡さんもバスケをやっていたんですか」
お姉ちゃんから漏れ聞いたことを訊ねると、藤岡春斗は曖昧に笑った。
「中学三年で辞めちゃいましたけどね。それで小説に逃げたんです。お姉さんみたいに全国区の選手じゃないので、辞めると決めたらもう迷うことはなかったですけど」
たった一回会っただけなのに、この人はほとんどすべてを見透かしていた。
すべてを言い当てられたお姉ちゃんの目にうっすらと涙が浮かんでいたので、「大丈夫だよ、落ち着いて」と口にする代わりに、お姉ちゃんの震える膝にそっと手を添えた。
「バスケから小説って、ずいぶん分野が違いますけど、どうやって違う道を見つけたんですか」
この店に来てから、はじめてお姉ちゃんがまともに口を開いた。
あまりにも健気な声だったからか、藤岡春斗はわずかに口ごもった。
どう答えていいものかを思案したあと、一語一語を丁寧に吐き出した。
「恩師の先生が、こういう世界もあるぞ、こっちの世界も楽しいぞ、って教えてくれたんです。最初はぜんぜん興味がなかったですけど、そこにいてもとりあえず嫌な気分にはならなかった。それから、だんだんそこにいるのが居心地が良くなってきた。今の世界に違和感があるなら、ひとまず別の世界に触れてみて、あとは自分の心に聞いてみるのがいいんじゃないですか」
お姉ちゃんがどうしてこの人に惚れたのか、よく分かった気がした。
言葉が人間を作るのだ。
この人は、お姉ちゃんに新しい言葉をくれた。
虎であるべし、という言葉を上書きする新しい言葉を。
「私にはどんな道が向いていると思いますか」
お姉ちゃんが伏し目がちに訊ねた。
「飼っている犬の名前、なんでしたっけ」
「あるてぃまです」
「どうして、その名前にしたんですか」
あるてぃまの名前を付けたのは私で、お姉ちゃんは命名の由来を知らない。
だから、代わりに私が答えた。
「究極という競技があるんです。バスケとアメフトを合わせたような競技で、バスケボールの代わりにフライングディスクを投げるんです」
新しい夢のことはまだだれにも話していないけれど、今こそ話すときだと思った。
「私はお姉ちゃんといっしょにアルティメットで日本一になりたい。バスケじゃお姉ちゃんと同じチームになれないけど、アルティメットなら同じチームになれるから」