ファンキー眼帯
あるてぃまは、お姉ちゃんの膝の上に寝そべり、でれっと弛緩しきっていた。
ひたすら嬉しそうに尻尾なんか振っちゃって、そこから一歩たりとも動こうともしない。
父と母はあるてぃまを連れて散歩に行こうとしていたが、姉の膝の上から動こうともしないのを見て、「お昼は自分でなんとかしてね」と言い置いて、そのまま出かけて行ってしまった。
あるてぃまばっかりお姉ちゃんに甘えてずるい、と思って内心で歯噛みしていたら、宅配便でも来たのか、インターフォンが鳴らされた。
あるてぃまと戯れているお姉ちゃんは私をちらりと見た。対応よろしく、ということだろう。
ハンコの用意をしていると、インターフォンが一度ならず、二度、三度と鳴った。
「アリー、遊びにきたぜえ。タコパしよーぜえ」
インターフォンがしつこく乱打され、うんざりしながら玄関へ行くと、右目に眼帯を付けた入谷つばめが立っていた。その背後に、ひっそりと真中麻乃が立っていた。
「どうしたの、その眼帯」
「中二病でも恋がしたいのだよ」
思わずツッコミを入れたが、会話のキャッチボールはさっぱり成立していない気がした。
「収穫は?」
「ナッシング。現実に希望はないね。二次元イケメンを究極召喚するしかないっすわ」
赤いカラーコンタクトをつけ、制服に包帯をぐるぐる巻きにして登校してきたこともあったから、今さら眼帯ぐらいで驚きはしない。
両手に買い物袋をぶら下げたつばめは勝手知ったる我が家のように入り込んできたが、麻乃は玄関に立ち尽くしている。
「お邪魔していいかな、アリサちゃん」
「麻乃だけ追い返したりしないよ。どうぞ、上がって」
招かれざる客は面倒だが、いちいちお伺いを立てられるのもそれはそれで面倒くさい。
地味メガネの学級委員長である真中麻乃と、ファンキー眼帯の入谷つばめの組み合わせは、だれが見ても水と油である。
しかし、この油はぬるぬるとどこへでも侵食していく性質があり、かくいう我が家もしっかりと食い込まれている。
我が家の浴室には、でかでかと「つばめ」と書かれた歯ブラシとシャンプーが置かれている。
入谷つばめは、いざというときの家出先をいくつも確保しているが、そのなかでも我が家は第一選択であるらしい。
カマジョは初等部だけは男女共学で、つばめとは小学一年生の頃からの付き合いだ。
部活に入れるのは小学四年生からだが、バスケ部で活躍するお姉ちゃんの見よう見まねで、校庭でつばめといっしょにバスケをして、ずっと「お姉ちゃんごっこ」をしていた。
四年生になって、つばめといっしょにバスケ部に入り、《《アリつばコンビ》》として名を馳せた。
しかし、つばめはディフェンスはからっきしのザルで、ひたすら攻めるだけ。
守るのはアリサの役目とばかりに押し付けてきて、「蟻のように守りたまえよ」と言っては、奪ったボールを献上せよ、と当然のごとくパスを要求してくる尊大な選手だった。
ムカつくので、こんなの取れないだろうというパスを思いきり投げつけてやると、しれっとキャッチして、しれっと点を取ってくるのがさらにムカつくやつだった。
センスの塊のような選手だったのに、中学に入学したとたんにダンス部に入り、屋上で謎のダンスを踊っている。
いちどだけ様子を覗いたことがあるが、悪魔に憑りつかれたか、宇宙と交信でもしているかのような気味の悪い動きだった。
二次元のイケメンが大渋滞しているスマホゲームに十万円ぐらい課金して両親にこっぴどく叱られ、着の身着のまま我が家に家出してきたこともある。それはすべて借金になったそうだ。
「この世に究極召喚されたのはつばめの方じゃないの」と言ったら、まんざらでもなさそうな顔をしていた。わざわざ重課金してまで、こんなのを召喚したくない。
「エリーさん、ちわーっす。髪、伸びましたね」
つばめは、ソファに座ってあるてぃまの頭を撫でていたお姉ちゃんにくだけた挨拶をした。
「どうしたの、その眼帯」
「姉妹でおんなじこと聞くんすね。さっきアリーにも聞かれましたよ」
「ものもらい?」
「いえいえ、ただのファッション眼帯です」
食卓にどさどさと買い物袋を置いたつばめは、お姉ちゃんの隣にどかっと座った。
学院の王子様である羽咲エリサは、全校生徒の憧れの対象、もっといえば崇拝の対象だった。
憧れの王子様とひと言、ふた言、お話ができただけで失神しかけた女生徒もいたらしい。
そんなお姉ちゃんを前にして、あまりにもつばめの態度は気安いが、目くじらはたてないでおく。
頭のネジが何本かぶっ飛んでいるが、憎めない性格であるから、「まあ、つばめだからね」のひと言で大抵のことが許されていたりする。
「エリーさん、どこかに出掛けます? いっしょにタコパしましょーよ」
たこ焼きパーティーを略してタコパだが、お姉ちゃんには通じてはいるまい。
キッチン奥の棚からプレート式のたこ焼き器を持ってくると、ようやくお姉ちゃんはなんのことか理解したようだ。
このたこ焼き器もつばめの私物で、タコパしようぜというわりには、準備はさらっと丸投げするところがつばめたる所以である。ほんと、どこまでもフリーダム。
どんな不用意なひと言が飛び出すかもしれないので、つばめとお姉ちゃんの会話に耳をそばだてながら、たこ焼きの用意をした。
あるてぃまも、つばめに関してはいまだ家族内の序列が定まっていないらしく、お姉ちゃんの顔とつばめの顔を交互に見比べて、いったいどっちに愛想を振りまくべきなのかを思案しているようだ。
考えた末、あるてぃまはお姉ちゃんの膝の上から動かなかった。それで正解。
「エリーさん、バスケ辞めちゃったんですね。もったいないなあ」
こともあろうに、つばめはいきなりお姉ちゃんの古傷を抉りにきやがった。
タコを刻んでいた包丁で、そのままぶっ刺してやろうかと思ったぐらいに頭に血が上った。
あるてぃまの頭を撫でていたお姉ちゃんの手が、ぴたりと止まった。
それから、ぎこちなく笑った。見ているこちらが辛くなるような引き攣った笑顔。
「頭越しにシュートを打たれたときの映像とブザーの音がずっと頭にこびりついてて、バスケをしていてもぜんぜん集中できなくてさ。あのときのことばっかり何度も何度も蘇ってきて、そのたびに吐きそうになる。バスケから離れたらなんともないんだけど」
「イップスですかね」
「……だと思う」
プロ野球選手やプロゴルファーが陥りやすい症状で、怪我があるわけでもないのにフォームなどを乱し、従来のパフォーマンスが発揮できなくなることをイップスという。
いままで出来ていたことが急に出来なくなってしまう。いわゆる心のスランプだが、競技者生命を脅かしかねない重篤な症状に繋がることも多々ある。
完治はなかなか見込めず、競技をすっぱりと引退するか、それまでのスタイルをがらっと変えて、だましだましプレーしていくかの選択肢しかない。どちらにしてもイバラの道だ。
いつになく弱気な発言をした姉を慰めるように、あるてぃまが顔をぺろぺろと舐めだした。
くすぐったそうに身をよじったお姉ちゃんは、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
「つばめ、用意できたよ。お姉ちゃんもいっしょに食べよう」
アリサは卓上にたこ焼きの用意を済ませ、こっちに来いと手招きをする。お姉ちゃんは遠慮して二階の自室へと行きかけたが、つばめがぐいぐいと背中を押し、強引に着席させた。
たまにはいいアシストするじゃん、と目で訴えると、つばめは右目の眼帯を指差した。
つばめのことだから、たぶん深い意味はないだろうけど、「お姉ちゃんは目が見えなくなっちゃってるんだよ」と言っているような気がして、不覚にも泣きそうになってしまった。
アリサはあるてぃまにドッグフードをあげるふりをして、机の下で必死に涙をこらえた。
「エリーさん、大学はどうですか。楽しいっすか。合コンとかするんすか」
生焼けのたこ焼きをひっくり返しながら、つばめが矢継ぎ早に訊ねた。
すっぴんのお姉ちゃんは白シャツにデニムのジーンズという出で立ちで、どう見ても男っ気がないのは分かりきったことであるはずだが、あえて直球で聞いてしまうところが小憎らしい。
湯気のせいでメガネが曇った麻乃は一切口を挟まず、ほとんど空気のようになっている。
「インカレサークルに誘われたことはある」
「インカレってなんでしたっけ?」
「他大学と合同で活動しているサークルのこと。飲み会にも行ったけど、そんなに楽しくはなかったな。お酒はまだ飲めないから、隅っこでウーロン茶を飲んでるだけだったし」
お姉ちゃんは元々、そんなに口数が多い方ではないが、プライベートのことを訊ねられると、さらに口が重くなる。何十人もの大学生が集まった居酒屋の隅っこで、ちびちびウーロン茶を飲んでいるお姉ちゃんを想像してみたが、さっぱりその姿が思い描けない。
「男もいたんですか? それとも女だけ?」
「半々ぐらいだったかな。明らかに学生っぽくない人もいたけど」
鎌倉女子学院は初等部こそ共学だが、中学、高校、大学は女子しかいない。
男もいた、という報告に俄然盛り上がるつばめだが、お姉ちゃんの顔色は冴えない。
「イケメンは? イケメンはいましたか?」
つばめの鼻息が荒すぎて、ちょっとは落ち着け、と言いたくなる。
お姉ちゃんは焼き上がったたこ焼きを頬張ると、「どうだろう」と言いながら首を捻った。
猫舌なので、食べる前にふうふうと息を吹きかけているのが可愛かった。
「女の子がみんなお洒落で、化粧ばっちりで、私だけすごく場違いな気がした。これまで制服とジャージしか着てないし、化粧なんかしたこともないし」
お姉ちゃんの声のトーンがどんどん下がっていく。バスケットコート内では無敵だったのに、コートを離れたらどこまでも無防備だ。つばめの侵入さえ、ディフェンスできないぐらいに。
「それでイケメンは? イケメンはいましたか?」
つばめが身を乗り出して訊ねた。聞くこと、それしかないのかよ。
まあ、お姉ちゃんがどんなキャンパスライフを送っているのかは興味があるけども。
「同い年の男の子と話すのは初等部以来だから、なにを話していいか分からなくて」
「そうっすね。すげーブランクありますもんね」
教師以外の生身の男子と接するのが久しぶり過ぎて、なにを話していいのかさっぱり分からず、ひたすら聞き役に徹して、ずっと黙りこくっていたらしい。
ウーロン茶の消費量だけが増え、帰るにも帰れず、ずっと黙っていたら「僕の話、つまらないですか」と真顔で聞かれたそうだ。
大慌てで「女子校育ちなので、男性と話すことが本当に久しぶりで」と弁解すると、不意打ちのカウンターで「可愛いですね」と言われたらしい。
「私なんて、でかくて、ごついから、可愛いなんて言われたことなくて」
お姉ちゃんが恥ずかしそうに、ごにょごにょ言っている。
「もしかしたら人生ではじめて女の子扱いされたかも」
お姉ちゃんは公称百六十八センチだが、実際のところ、もっと高い。いわゆる逆サバ読みで、私もつばめも麻乃も百五十センチあるか、ないかなので、お姉ちゃんと比べたら皆、ちんちくりんだ。
「ときめいちゃいました?」
「……わからない」
顔から湯気が出そうなぐらいに、お姉ちゃんの顔は真っ赤だった。
つばめのにやにやが止まらないが、麻乃もさりげなく楽しそうだ。
「お姉ちゃん、かわいい」
「エリーちゃん、かわいい」
アリサが素直な感想を口にすると、つばめもしっかり乗っかってきた。
麻乃もこくこくうなずいていて、テーブルの下であるてぃまがぴょこぴょこ飛び跳ねている。
学院の王子様としては百点満点のお姉ちゃんだが、女の子扱いされたとたん、生意気盛りの中二病にも茶化されるぐらいの小学生レベルだということが露呈した。
お姉ちゃんはお風呂でのぼせてしまったように顔を紅潮させ、膝の上に手を置いたまま硬直している。インカレサークルの飲み会でもこんな感じだったのだろうかと思うと、いろいろと不安になってきた。とりあえず、相手の男がどんなやつかが気になってしかたがない。
「その人と連絡先とか交換したの?」
お姉ちゃんがうなずきかけたそのとき、リビングテーブルの上に置かれたスマートフォンが振動した。ぴこん、と着信音がしたので、お姉ちゃんにメッセージが届いたのだろう。
お姉ちゃんはぱたぱたと駆けていき、スマホ画面をおそるおそる見た。口元がほころんでいるのが丸わかりなので、相手はたぶん、インカレサークルで知り合った男だ。
阿吽の呼吸でつばめとアイコンタクトし合って、お姉ちゃんの背後から忍び寄り、両側から画面を盗み見た。お姉ちゃんは大慌ててスマホを隠そうとしたが、もう遅い。
文面は、ばっちり見えてしまった。「先日はお疲れさまでした。そのうちお茶でも」という、ごくごく短い社交辞令だけで、年賀状に書き添える一筆よりも簡素なコメントだった。
「どうしよう、誘われちゃった。なんて答えたらいいの? すぐに返事しないほうがいい?」
ポンコツっぷりをさらけ出しているお姉ちゃんの勇み足が止まらない。つばめはにやけた笑みを浮かべながら、優しくお姉ちゃんの背中に手を添えてソファに座らせた。
これで出前のカツ丼でもとって、故郷のおっかさんの話でもすれば、錯乱したお姉ちゃんはすべてを自白するに違いない。麻乃を置き去りにしたまま、私もお姉ちゃんの隣に腰掛けた。
「相手はどんな感じの人なんですか? スポーツマンタイプ?」
それ、ただの社交辞令っすよ、とは口にしないところが、つばめたる所以だ。
「私より背が低かった。中学のときにバスケしていて、でも辞めちゃって、今は小説家をしているって」
訥々と語る話を聞いているうちに、目が点になった。
「小説家?」
つばめが訊ね返し、「なんだ、そのレアキャラ。オモシロ」と呟いた。
「お姉ちゃんよりも背が低いの?」
「隣に立ったとき、私の肩ぐらいに顔があった。アリサよりちょっと高いぐらいかも」
お相手はずいぶんと小柄らしいが、とても意外な気がした。
てっきりお姉ちゃんの好みは、背が高く、ごつくてマッチョなタイプだとばかり思っていた。
あるてぃまを飼う前に「大型犬がいい」と言っていたのは、背の高い自分が小型犬を連れていたら、よけいに自分の背が高く見えてしまうからだろう。
それとも、あるてぃまを飼ううちに小柄フェチに目覚めたのだろうか。
「あたしが代筆しましょうか」
つばめがそう言うと、お姉ちゃんはおろおろと周囲を見渡してからスマホを差し出した。
「……お願いします」
「お任せあれ。大得意っす」
どんと胸を叩いたつばめが、たこ焼きの生地でできた泥舟に見えた。