表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/34

姉の足跡

 ぬるま湯に浸かったあるてぃまは、小型犬用の湯桶から鼻だけを出して、ちゃぷちゃぷ泳いでいる。犬はお風呂が嫌い、と聞いていたのに、飼ってみたらぜんぜんそんなことはなかった。


 あるてぃまを飼い始めてから、だいたい半年が経った。


 お姉ちゃんといっしょにいくつものペットショップをハシゴしても、なかなか気に入る子がいなかったが、あるてぃまを見かけた瞬間に恋に落ちた。


 お姉ちゃんは「飼うなら大型犬がいい」と言っていたけれど、試しに抱かせてもらったときにはすでに骨抜きになっていたので、異論はなかった。


 高校三年で部活を引退してから火が消えたロウソクのようになっていたお姉ちゃんに笑顔をもたらしたのは、まぎれもなくあるてぃまだ。


 友人の入谷つばめ曰く「お姉ちゃん大好きっこ」であるらしい私は、そこはかとなくジェラシーを感じたけれど、お姉ちゃんが笑っているのならそれでよしとする。


 六歳年上の姉は、アリサが小学一年生のときには中学一年で、アリサが六年生になったときには高校三年生だった。


 姉が辿った足跡をそのまま追いかけるようにして、アリサも鎌倉女子学院の初等部に入学すると、あちこちで「羽咲エリサの妹」として可愛がられた。


 どこに行っても、どんな先生に対しても姉の評判は上々で、お姉ちゃんのことを悪く言う人には会ったことがなかった。


 羽咲エリサの名はカマジョの間では英雄にも等しく、へたなアイドルなんか目じゃないぐらいに同性から超絶にモテた。


 女子校ではボーイッシュな先輩は王子様扱いされるのが常だが、バレンタインデーには段ボール一箱では収まりきらないぐらいのチョコレートをもらっていた。バスケ部の対外試合ではお姉ちゃん目当ての同窓生が大挙して押しかけ、黄色い声援はライブ会場さながらに凄まじかった。


 カマジョバスケ部はさほどの強豪校ではなかったが、お姉ちゃんの世代だけは特別に強く、「日本一になろう」という高い目標を掲げ、神奈川県内の強豪校を次々に蹴散らしていった。


 全国行きの切符をかけた大一番は、逆転に次ぐ逆転のシーソーゲームとなった。


 アリサも応援席の最前列に陣取り、コート上で躍動する姉を必死で応援した。


 シュートを決めれば「ナイッシュー、お姉ちゃん!」と大声で叫び、好ディフェンスを見せれば「ナイスディフェンス、お姉ちゃん!」と絶叫するうち、背番号4を応援する声はいつのまにか、お姉ちゃんコール一色になった。


 応援の声はコート内にもちゃんと届いていたようで、後日お姉ちゃんは「私、何人の妹がいるんだろう。あれは恥ずかしかった」と苦笑した。


 羽咲エリサは味方が抜かれればしっかりとカバーし、相手のシュートを叩き落とし、単独でドリブルで駆け上がり、シュートを捻じ込んだ。アリサの隣に座った入谷つばめは、コート上で誰よりも輝くエリサを「最終兵器お姉ちゃん」と形容した。


 残り十秒を切ったところで再逆転した鎌倉女子学院は、わずか一点のリードを死守すべく、手負いの獣じみた迫力を帯びながらディフェンスした。


 相手はスリーポイントラインの外側でボールを回すのが精いっぱいで、守りの固いゴール下へはまったく侵入できない。残り四秒、三秒、とタイマーがカウントダウンしていく。


 残り二秒となったところでボールを受けたのは相手チームのエースだが、そこはお姉ちゃんがきっちりとマンマークしていた。


 一対一でぴったりと張りつき、ゴール側へ振り向かせもしない。


 ここで下手に手を出せば反則をコールされて、相手にフリースローを与えてしまう危険性があるから、身体接触は厳禁だ。


 ノーファウルで、だがプレッシャーだけはしっかり与える絶妙のディフェンスだった。


 相手チームのエースは、試合会場中から「……二、一」というカウントダウンの声が耳に入ったのだろう。強引に振り向くと、苦し紛れの体勢からシュートを放った。


 お姉ちゃんに身体を預け、あわよくばファウルを誘おう、という魂胆だったのだろうけれど、お姉ちゃんはみすみす相手に三本のフリースローをくれてやるようなミスは犯さない。


 シュートチェックだけはしたが、相手には一切触れずにシュートを見送った。


 一試合を通じて火花が散るようなエース同士の攻防だったが、最後のワンプレイに関していえば、お姉ちゃんの方が一枚も二枚も上手のように思えた。


 しかし、勝利の女神は気まぐれで、お姉ちゃんには微笑んでくれなかった。


 時間ぎりぎりになって、ただ高く投げただけのシュートは、ゴールの縁に当たった。


 弾かれたボールは高く浮き上がり、もういちどゴールの縁に当たり、くるりとリングを一周して、ぽとりとネットを通過した。


 試合終了のブザーが鳴り響き、勝負を決するブザービーターが決まってしまった。


 鎌倉女子学院の選手たちはがっくりと膝を落とし、それまで大盛り上がりだったベンチは声をなくした。劇的な敗戦後に整列した選手たちの目には、大粒の涙が溢れていた。


 ほとんど全員が大泣きしているなかで、お姉ちゃんだけが泣いてはいなかった。


 一人で敗戦の全責任を背負っているみたいで、涙ひとつこぼしもしなかった。


 試合後、応援に駆けつけた父兄たちに向かってお姉ちゃんが全員を代表して挨拶した。


「応援ありがとうございました。残念な結果になってしまい、今はなにも考えられません」


 そう言いながらもお姉ちゃんは毅然とした態度を崩さず、最後の最後まで主将としての矜持を貫き通した。


 あと一秒、早く時間が過ぎていたら。

 あと一センチ、シュートがずれていたら。


 そんな言いわけをひとつも言わず、お姉ちゃんはただただ詫びた。


 部員は皆、泣きじゃくっていた。

 応援に来た父兄たちも、生徒たちも皆、もらい泣きしていた。


 表情を失くしたお姉ちゃんだけが泣いていなかった。


 だから、私が代わりに泣いた。

 お姉ちゃんの胸に飛び込んでいって、わんわん泣いた。


 人前で泣けない、誇り高い姉の代わりにずっとずっと泣いていた。


「終わっちゃった……」


 お姉ちゃんは泣きじゃくる私の頭を優しく抱き寄せると、ぽつりと呟いた。


 それはきっと偽らざる本音だったのだろう。


 バスケットボール選手としてのお姉ちゃんの人生は、きっとあの日で終わったのだ。


 鎌倉女子学院大学に進学したお姉ちゃんは、やっぱり大学でもバスケ部に入部したけれど、まるで別人かのように精彩を欠いた。


 これまでなら簡単に決めていたはずのシュートを外し、ドリブルは手につかず、ディフェンスに向かえば一歩遅れる。


 日本一になろう、という合言葉を胸に、ひたすらハードな練習に明け暮れてきた情熱の日々が音を立てて崩れていった先に、お姉ちゃんを掻き立てるガソリンはもう残っていなかった。


 情熱はもう空っぽで、半年も経たないうちに自主的に大学バスケ部を去った。


 お姉ちゃんの作り笑いを見るのが悲しくて、でもどうすることできなかった。


 あるてぃまを飼い始めたのは、それからだ。


 あるてぃまのおかげで、お姉ちゃんにもだんだんふつうの笑顔が戻ってきたのが嬉しい。


 ぬるま湯のシャワーであるてぃまを洗ってやると、気持ちよさそうに尻尾を左右に振る。


 嬉しさを隠しきれないところがたいへん可愛いのであるが、幼い頃からべったりお姉ちゃんになついていた私も、もしかしてこんなふうにぴこぴこと尻尾を振っていたのだろうか。


 フライングディスクを咥え、ふさふさの尻尾をちぎれんばかりに左右に振り、「すごいでしょ。褒めて、褒めて」と言いたげに戻ってくるあるてぃまが、ふと自分に重なって見えた。


 そういえば、あるてぃまを飼い始めてすぐにお姉ちゃんが言っていた。


 あるてぃまはアリサにそっくりだね、と。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ