疾風ジャパン
スローオフ直後からの猛ダッシュは、押し寄せる大波のようだった。
ディスクを拾ったアリサが顔を上げると、もう目の前にディフェンダーが迫っていた。
ピボットをして躱そうにも吐息が感じられるぐらい近くにぴたっと密着されて、異常なまでの圧力を感じた。相手は熟練の狩人で、自分がか弱い野ウサギになった気分だ。
やべえな、圧力ハンパねえなと思っていると、ストーリングカウントがどんどん10に近付いていく。耳元で「1、2、3、4、5……」と呟かれ、ひたすら恐怖を覚えた。
本気で「お前はもう死んでいる」と宣告されているようなものだった。
自陣のエンドゾーン付近で一本のパスを回すだけでも困難で、さっぱり前へ進めない。
プレッシャーが激し過ぎて、味方の位置さえ、ぜんぜん把握できない。
スローオフされたディスクが落ちた地点からじりじりと後退させられ、苦しまぎれに自陣のエンドゾーン内へとパスを下げると、相手のハンドラーにダイビングキャッチされた。
キャラハンゴール――自陣エンドゾーンで相手にディスクをキャッチされると、相手チームの得点となる。
攻撃側だったはずなのに、いつのまにか先制点を奪われていた。
疾風ジャパンの名前は伊達ではなく、試合開始一分かそこらで心が折れた。
圧倒的な実力差を見せつけられ、がたがたとチームは崩壊した。
アリサたちはすっかり戦意を喪失し、相手の攻撃は止められるはずもなかった。さらにもういちどキャラハンゴールをお見舞いされた。試合開始ものの五分ほどで、スコアは0対4。
疾風ジャパンが五点を先取するうちに一点でも取ったら勝ち、というルールを持ちかけられたとき、「ひょっとしたら下剋上いけるんじゃね」などと思った自分を全力でぶん殴りたい。
ディープのお姉ちゃんにはパスひとつ通すことができず、ミドルのつばめは目の前でパスを幾度もカットされていた。フィールド中央までさえ、たどり着けない。
手も足も出ないとはこのことで、こちとらメンバー全員が競技歴数ヵ月足らずの素人の寄せ集めだ。日本代表相手によくやったよ、と引き下がることはたやすい。疾風ジャパンのマッチポイントとなり、エンドゾーンで円陣を組んだが、打開策はなにもなかった。
たった五分かそこらしか時間が立っていないはずなのに、もう息が切れていた。
アリサがうなだれていると、苛立ちを隠さないつばめが思いきり尻を蹴ってきた。
「なにすんだよ」
きっと睨みつけると、つばめはここぞとばかりに眼帯をブチっと引きちぎった。
今の今まで眼帯を外していなかったのに、まさかの「つばめちゃん本気モード」だった。
「本気と書いて、ガチと読む」
「いや、マジだろ」
「ガチで勝ちに行くからね。賞金五十万はだれにも渡さん」
眼帯をかなぐり捨てたつばめの目がマジだった。
「でも、どうするの。プレッシャー半端ないんですけど」
「あたしとアリサとエリサ姉ちゃんの三角形で運ぶから、みんなは前に走っちゃって」
ディスクを運ぶのはアリつばコンビ、三角形の頂点に最終兵器お姉ちゃんを据え、困ったときは上手投げで、お姉ちゃんがジャンプして手の届くぎりぎりにふわりと投げ上げる。
「プレッシャーきついけど、エリサ姉ちゃんの高さで勝負できる」と、つばめが断言した。
「ハンマー連発ってこと?」
「そう、ハンマー、ハンマー、ハンマー! 蟻のように一歩ずつ、地道に前進」
「地道に一歩ずつなんて、つばめらしくないじゃん」
「絶対に負けられない戦いが、そこにはある!」
お姉ちゃんのジャンプの最高到達点を越えてしまえばそこでジ・エンドだし、ジャンプするタイミングとディスクを投げるタイミングがずれてしまえば元も子もない。
アルティメットであれば難しいが、しかしバスケでならば、こんなプレーは造作もない。
ポストアップしたお姉ちゃんに、山なりのパスを供給するだけのことだ。
「いいよ、高く投げてくれたらぜんぶ取る」
お姉ちゃんの目には高校時代を彷彿とさせるような生気が漲っていた。
バスケ部のエースで主将で王子様だった全盛期の姿そのままに、ぱんぱんと両手を叩くと、メンバーを鼓舞し、よく通る声で言った。
「よし、行こう。同点になっただけ、まだ負けてないよ。決勝点はうちらがもらう」
つばめがにやにやしながら私の肩を小突いてきた。疾風ジャパンに圧倒的な実力差を見せつけられて、本気モードに覚醒したのは入谷つばめだけではかった。
「目覚めちゃったじゃん、最終兵器お姉ちゃん」
「本気と書いて、ガチと読む」
「ガチで勝ちに行くからね。賞金五十万はだれにも渡さん」
スローオフを待つ間、つばめと並び立ち、こつんとグータッチする。
フライングディスクがエンドゾーン手前に落ちた。アリサが拾い上げると、ディフェンスの大波が一気に迫ってきた。しかし、不思議と落ち着いていた。
隣を見れば、つばめがうろちょろと走り回っている。
前を見れば、お姉ちゃんがいつでも高く飛べる体勢でいる。
左足を軸にピボットしながら、お姉ちゃんめがけて山なりにディスクを投げ上げた。
お姉ちゃんは背中に羽根が生えたみたいに高々とジャンプし、ふわりと舞ったディスクを難なく片手でキャッチした。アリサとつばめは、ディスクを確保したエリサの周囲を衛星のように走り回り、ディフェンスが剥がれた瞬間にパスを受ける。
ハンマー、ハンマー、ハンマーの連発で、地道に前進を続ける。
お姉ちゃんの背中に導かれ、気がつけば敵陣のエンドライン一歩手前まで迫っていた。
疾風ジャパンの面々の目の色も変わっていて、全身から殺気がほとばしっている。
日本代表という立場上、中学生チームなんぞに土をつけられてしまうわけにもいくまい。
フィールドは、異様なまでに静かだった。
「スタック! みんな、並んで!」
お姉ちゃんが大声で吠えた。その姿は、凛々しくて気高い虎に見えた。
敵陣エンドゾーンの一歩手前でアリサがディスクを保持し、残りの六人は縦一列に密集した。
ゾーン内でだれかがディスクをキャッチした瞬間に勝ちだ。アリサは慎重にピボットを踏みながら、縦一列が蜘蛛の子を散らしたようにばらける様をイメージする。
まずだれが飛び出すか、と思っていたらやはり真っ先に動いたのはつばめだった。
しかし、疾風ジャパンのディフェンスも鬼気迫るものがあり、すべてのパスコースが完璧にふさがれている気がした。
ここはもう、お姉ちゃんの高さに賭けるっきゃないと思って、ハンマーを繰りだそうとしたその瞬間、つばめが切り返しからの鋭い出足でマーカーをぶっちぎった。
ここっきゃない! とすかさずフォアハンドで素早く投げると、それが罠だった。
つばめの背後から急に姿を現したハンドラーが飛びつき、ダイビングカットされた。
そこから超ロングスローを繰り出され、反対サイドを駆け上がったミドルの選手が、悠々とエンドゾーンに走り込んだ。
決勝点を奪われ、0対5。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
膝から力が抜けて、立っていられなかった。
最後の最後に一矢報いたが、スコアの上では手も足も出ない完敗だった。
「良い判断だったよ、惜しかった。ほんとうに惜しかった」
お姉ちゃんがねぎらいの言葉をかけてくれたけれど、どうして最後までお姉ちゃんに頼らなかったのか、どうして最後まで力押ししなかったのか、とっさの判断を悔やんだ。
「お姉ちゃん、ごめん。みんな、ごめん……」
泣きたいのに、なぜだか涙は溢れてこない。心が空っぽになってしまったみたいだった。
悔やんでも、悔やんでも、0対5というスコアは変わらなかった。




