最終兵器鎌女
予備の制服をつばめに貸し、いっしょに徒歩で学院に向かった。
アリサとつばめはチェック柄のスカートを穿き、スクールカラーである緑のリボンを胸元につけて登校した。今日もよろしくお願いします、という思いを込めて、校門前で一礼するのが鎌倉女子学院の伝統で、朝礼前の朝八時二十五分に修養の鐘が鳴る。
一分間静かに瞑想すると、騒がしかった教室内はとたんに静けさに満ちる。
毎朝十分間は読書の時間に充てられていて、学校指定の課題図書は特にないが、自分が読みたい本を買ったり、図書館や友達から借りたりして読む。
その日、アリサが読んでいたのは、藤岡春斗著『紙の子供たちはみなキョドる』だった。
お姉ちゃんがほんのり恋心を抱いている童顔の小説家はどんな物語を書くのだろうと思って、教室に向かう前に図書館で探してみたら、この本があった。
こねくり回したような筆致で書かれているのは、「電車内はスマホをいじっている人ばっかりで、紙の本を読んでると、ちょっとキョドるよね」という、ただそれだけの内容だった。
電車のシートに座っているほとんど全員がスマホをぼんやり見ているなかで、向かいの席に座った綺麗なお姉さんが隠すことなくハードカバーの小説を読んでいて、しかし人垣に遮られ、表紙がよく見えない。なんの本を読んでいるんだろう。気になるなあ、とドキドキしながら、結局なにも話しかけられずに、お姉さんは下車する、という甘酸っぱい筋書き。
主人公はいわゆる草食系の中学生の男の子で、お姉さんは始発から乗っているのか、いつも同じ時間、同じ席に座って小説をむさぼるように読んでいる。そして、いつも同じ駅で降りる。小説に夢中でついつい乗り過ごしそうになるのは一度や二度ではなく、大慌てでばたばたと、「降ります、降ります」と言いながら駆けていくお姉さんの後姿を見送る日々。
お姉さんの服装も、年齢も、外見もほとんど描写されていないけれど、主人公の「ぼく」が、「小説のお姉さん」をたいへん好ましく思っているのは、ひしひしと伝わってきた。
朝礼の時間が始まっても夢中で読んだ。「ぼく」はただ「小説のお姉さん」をじっと観察しているだけで、物語的にはなんにも起こらない。
なんにも起こらないのに、それでも面白くて、ページをめくる手が止まらなかった。
頭のなかでは様々な空想と妄想が入り混じり、いろいろと中学生らしからぬ小難しいことを考えているわりに、「小説のお姉さん」のことを世界でいちばん可愛いのでは、としごく真面目に考えている「ぼく」がもう、頬ずりしてあげたいぐらいに可愛かった。
なんだこれ、惚れてまうやろ、と思いつつ、区切りのいいところで小説を閉じた。
教壇には、ダンディーな白髪のおじいちゃんの石田先生が立っていた。
今日もぴしっとしたスーツを着て、歴史の教科書で教卓をトントンと鳴らした。
「さあ、授業をはじめますよ。お嬢さんたち」
まるで英国執事かのような雰囲気に加えて、深みのある渋い声。言葉遣いまで丁寧ときたものだから、女子人気はそれこそ青天井で、とどまるところを知らない。
ダンス部の顧問をしているが、踊りの指導は卒業生のコーチにお任せで、生徒たちといっしょに踊ることはない。
石田先生は終礼の時間になると、だいたいぐったりと疲れている。
修養日誌は毎日提出することになっていて、クラス担任の石田先生はそのすべてに目を通し、終礼までにそれぞれにコメントを書くから、部活の面倒までは見ていられないのだろう。
日誌は朝礼のときに集めるが、つばめのように日誌をサボるやつは、お昼休みが終わるまでに職員室に持っていくことになっている。
先生稼業も楽じゃないなと思うと、目の前の授業がとてもありがたいものに感じられた。
しかし、小説の続きが気になって、午前中の授業は半分ぐらい上の空だった。
お昼休みになり、つばめが机をくっつけてきた。
昼食はお弁当持参で、教室で食べてもいいし、購買部のあるカフェテリアで食べてもいい。お昼休憩は四十分しかないので、基本的には教室で食べることにしている。
「麻乃もおいでよ。いっしょに食べよう」
「うん、アリサちゃんありがとう」
入学したての頃の麻乃は教室内でだれとも話せず、ぽつんと孤立していた。どのグループにも属せず、悲しそうにお弁当箱を広げ、口元を隠すように食べている姿がさみしそうだった。
見るに見かねたアリサが「いっしょに食べようよ」と誘うと、麻乃は泣き笑いみたいな顔をして、「うん、ありがとう」と絞り出すような声で言った。
それから、麻乃といっしょにお昼ご飯を食べるようになった、
気分屋のつばめは渡り鳥のようにいろんなグループを渡り歩いているが、アリサのお弁当の唐揚げをハゲタカのように狙っていて、なんだかんだとちょっかいを出してくる。
昨夜、羽咲家に泊まったつばめの分も、母さんがお弁当を作ってくれた。
黄色いお弁当箱はお姉ちゃんのお古で、唐揚げとブロッコリーが入っていた。
つばめは何食わぬ顔でブロッコリーをつまむと、ひょいとアリサの弁当箱にパスしてきた。
鎌倉女子学院のスクールカラーは緑なのに、つばめは緑色野菜が嫌いだ。
特にピーマンとブロッコリーが大嫌いで、見つけ次第、しれっとアリサに横流ししてくる。
つばめはわざとらしく口笛を吹き、なんにも知りません、というふりをしている。
「たまには食べなよ」
「神は死んだ」
「またそれかよ」
ブロッコリーを食べない理由にニーチェを引用するなよ、と思う。
突っ返したって食べやしないのだから、仕方なくつばめの分のブロッコリーも食べた。
しかし、正直なところを言えば、私もブロッコリーは苦手だ。草を食べている葉虫になった気分がするから、弁当にブロッコリーが入っているとちょっとげんなりする。
「アルティメット部を作るなら、顧問はもちろん石田先生だよね」
汎神論者のつばめはいろんなものを神呼ばわりするが、つばめの神序列のなかでも石田先生は相当上位に位置している。「声が神、コメントが神、存在が神」と大絶賛だ。
ダンス部に入ったのも、ただたんに神といっしょに踊りたいからなのかもしれない。
お嬢さんたちと踊る石田先生などは想像できず、それはちょっとした事件だ。
「石田先生は無理でしょう。そもそもダンス部の顧問だし」
「大丈夫っしょ。ダンスを教えてるのは外部コーチだし、ほとんどなんにもしてないもん」
昨夜から眼帯を外さないままでいるつばめがへにゃりと笑った。
もしかして、石田神を究極召喚するために魔力を溜めているのだろうか。
「それより、アリサ。チーム名はどうすんの?」
「チーム名?」
部活にチーム名はいらんだろう、と思うのだが、つばめはしきりにチーム名を決めたがった。
「なにか案があるの?」
いちおう聞くだけ聞いてみると、案の定ふざけたネーミングばかりだった。
「汎神タイガース」
「却下」
「虎&蟻」
「却下」
「最終兵器鎌女」
「却下」
「最終兵器お姉ちゃんズ」
「……却下」
つばめは修養日誌に字面を書いてみせたが、どれもこれも使えない代物だった。ことごとく却下し続けると、「なんだよ、つまんね」と言って、ふて腐れてしまった。
「なんだよ、いいじゃん最終兵器カマジョ」
「とりあえず兵器から離れなよ」
「ゾンビに襲われたとき、もっとも生き残る確率が高いのは鉄鋸だからな。鎌だって、バールじゃないけどバールみたいなものだろ」
いざというときの対ゾンビ用武器としてもっとも有用なのは、バール、斧、弓矢、バットのうちどれか、というクイズが『ゾンビサバイバルガイド』に載っているらしい。
斧は重くて振り回せないし、弓矢は打ち尽くしたらおしまいで、バットは繰り返し使うと、へこむことがある。
その点、バールは取り扱いが簡単で、耐久性もあり、先が尖っているので攻撃力もある。
ということで「バール=最強」らしいが、日本人に馴染み深いのはバールよりも鎌でしょう、というのがつばめの主張だ。ゾンビとか兵器とか神とか、ひとまずそういう危なげな路線から離れてほしいのだが、つばめは言い出したら聞かない。
「石田先生に『最終兵器カマジョ』の顧問をお願いします、って頼めるの?」
「大丈夫っしょ。ノー・プロブレム」
問題があり過ぎる気がするので、さっきから会話を聞いているだけで口を挟まない麻乃に助けを求めることにした。
「麻乃はどう思う?」
プチトマトのへたをとった麻乃は、しばらく考えてから、こそっと言った。
「鎌倉アルティメット・ガールズはどうかな」
修養日誌につばめが記した「最終兵器鎌女」を「鎌倉最終兵器女子」とほんの少し書き直し、そこに「アルティメット・ガールズ」というフリガナを振った。
つばめの出した珍名を無下にはせず、それでいてごく常識的なネーミングに着地してみせた。
麻乃の添削を受けたつばめは唐突に笑い出した。好物の唐揚げをひょいと麻乃にプレゼントする出血大サービスぶりで、たいそうお気に召したらしい。
「やべっ、神っ! 麻乃、あんた神だね!」
晴れて真中麻乃も、入谷つばめの脳内神序列において「神」の位に就いたらしかった。




