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麻乃のポジション

 鎌倉の自宅に帰宅すると、夜八時を過ぎていた。電車のなかでアルティメットのルールなどをつばめに説明したが、「やってみないと、よくわかんね」のひと言で一蹴された。


 理屈っぽい話を嫌うつばめらしい反応だが、聞く耳があっただけで十分である。


 にわかに興味を示しているようだし、そのまま我が家までくっ付いてきたのがその証拠だ。


 玄関で靴を脱いでいると、麻乃のスニーカーがきちっと揃えられて置かれていた。


「え、麻乃まだ家にいるの?」

「そういやアリサの部屋でマンガ読んで待ってて、って言ったな」


 父と母はまだ外出しているようで、リビングは真っ暗だった。


 麻乃の存在をすっかり失念していた。時間も時間だし、てっきりもう帰ってしまっていたとばかり思っていたが、家族がだれも家にいなければ、鍵を閉める人間がいない。玄関の鍵を開けっ放しで出て行くわけにもいかず、帰りたくても帰れるはずがなかった。


 二階の自室に駆け込むと、麻乃は言いつけ通りにマンガを読んでいた。


 あるてぃまは、ベッド脇で体育座りした麻乃の近くで寝そべっている。


「麻乃、ごめんっ!」


 部屋にあるマンガはすべてつばめの私物で、入谷家に収容できなくなったはみ出しものがすべてアリサの部屋に運び込まれている。もはや、ここは「つばめの巣」である。


「おかえり、アリサちゃん」


 麻乃はまったく怒りもせず、柔らかな笑みを浮かべた。置いてけぼりにした上、さらにその存在を忘れるなんてひどい扱いをしたのに、怒りの色さえ見えなかった。


「アリサぁ、お腹へったあ。なんか作って」


 ひたすら自由なつばめは、うたた寝していたあるてぃまに襲いかかった。


 突然の襲来にびっくりしたあるてぃまは機敏な動きでつばめの手をすり抜けたが、すぐに捕まった。つばめの手から離れたくてジタバタしているが、やがて諦めたように大人しくなる。


「焼きうどんとかでよければ、私が作ろうか」


 お姉ちゃんが申し出ると、つばめが「マジっすか、エリーちゃん、神っ!」と狂喜している。


「あんた、神多すぎじゃね」


 イラストを描いてくれたアニメーターのことも神と言っていたし。


「神即自然、すべてのものに神が宿っているのですよ」

「なんだよ、それ」

「スピノザ。汎神論」

「この前まで、神は死んだって言ってたじゃん」

「それはニーチェ。今、時代はスピノザっすよ」


 つばめのマイブームは脈絡がないので、お姉ちゃんの焼きうどん作りを手伝うことにした。


 つばめは私のベッドの上にぼふっと飛び乗って、ごろごろしている。


「麻乃、家には連絡したの?」

「うん。アリサちゃん家にいることは言ってあるから大丈夫」


 羽咲家も入谷家も放任だが、真中家はきちっとしている。


 明日も学校があるのに夜八時まで友人宅にいるなんて、たぶんはじめての経験だろう。


「今日はもう遅いから、麻乃も泊まっていきなよ」


 まるでここが自分の家かのように、つばめが言った。


「だれの家だよ」

「え? あたしの家でしょ」

「ちげーし」


 つばめは、描いてもらったイラストを自慢げに麻乃に見せびらかしている。


「見て見て、麻乃。すごくね、すごくね、神じゃね」

「すごいね、つばめちゃんにそっくりだね」


 麻乃が困ったような笑みを浮かべて褒めたが、つばめの髪は青くもなく、目は赤くもない。


 唯一、イラストと同一の部分があるとすれば、右目の眼帯だけだ。


 とりあえず眼帯を外せよ、と思ったが、頑なに外すことはなかった。


 入谷つばめの自己同一性アイデンティティに関わるものなので、しばらく外すつもりはないらしい。


 有名人に握手をしてもらい、「もう一生、手を洗いません!」と大喜びするファンならば聞いたことがあるが、自分がモデルになったイラストのイメージを崩さんがために眼帯を外さないやつなど、聞いたこともない。


 握手してもらった感激など、半日もすれば薄れていってしまう儚いもので、どうせその日か、翌日ぐらいには手を洗う。


 つばめの眼帯がいつまで続くか、しかと観察することにした。


 眼帯に宿った神はたぶん、すぐに死ぬだろう。

 私の予想が確かならば、おそらく今晩にでも。

 それを見届けたあと、修養日誌に書こうと思う。「神は死んだ」と。


 階下に降りて、お姉ちゃんといっしょに焼きうどんを作った。


「鎌女にはアルティメット部がないみたいだけど、インカレサークルならいくつか見つかった。見学は随時募集中って書いてあったから、今度行ってみようと思う」


 うどんを熱湯で茹でているあいだ、お姉ちゃんが言った。


 帰りの電車のなかで、やけに熱心にスマホを見ているなと思ったら、大学のアルティメット・サークルを探していたらしい。お姉ちゃんが新しい世界へ一歩踏み出そうとしているのは素直に嬉しいけれど、インカレサークルというところが引っ掛かった。


 インカレってことは、他大学と合同ということで、おそらく男性もいるだろう。


 お姉ちゃんの男耐性の無さを目の前で見せつけられたから、そこだけが心配だ。


 アリサはフライパンに油を垂らし、豚肉を炒めてからキャベツを加える。そこにお姉ちゃんがうどんを投入する。塩と胡椒で味をととのえ、うどんを一本つまんで味見してみる。


「うん、いいと思う」


 本音としては、ぜんぜん良くない。焼きうどんの味付けなんて、どうだっていい。


 お皿を四つ用意して、心持ちお姉ちゃんのお皿に多めにうどんを盛りつける。


 お姉ちゃんは、私の気持ちをぜんぜん分かってくれていないと思うと、ちょっとやさぐれた気分になる。


 テーブルに皿と箸を並べているあいだ、お姉ちゃんがつばめと麻乃を呼びに行ってくれた。


 アルティメットサークルに入れば、お姉ちゃんのことだからすぐに頭角を現すだろう。


 でも、そしたらお姉ちゃんと同じチームを組む、という夢からは遠退いてしまう。


 大学生のチームに中学生が混ざれるはずはないし、私が大学生になった頃にはお姉ちゃんはとっくに大学を卒業している。


 お姉ちゃんといっしょのチームになりたいというのは遠い未来の話じゃなくて、今この瞬間の話なんだけどな、なんて苦々しく思ったけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。


 階段のほうからどやどやと賑やかな足音がして、つばめと麻乃とお姉ちゃんが降りてきた。


「お、うまそーじゃん」


 お姉ちゃん用に多めに盛り付けた皿のある席に、つばめがどかっと座った。


 そこはお姉ちゃんの席で、お前の席じゃねーし、と思って、だんだんムカムカしてきた。


 ふて腐れながら食べたうどんの味は、とてつもなく淡白な気がした。


「ごちそうさまでした」


 焼きうどんを食べ終え、食器を片付けると、麻乃はそそくさと帰る準備を始めた。


 アリサはパーカーを羽織り、サンダルをつっかけるが、つばめは立ち上がる気配さえない。


「駅まで送るよ」

「え、そんな。いいよ、もう遅いし」


 麻乃はひたすら恐縮するが、女の子の一人歩きは危険だ。


「お姉ちゃん、麻乃を駅まで送ってくるね」

「いっしょに行こうか?」

「ううん、平気。帰りは自転車だから」


 麻乃はぺこりと頭を下げ、家の外に出た。赤い自転車を手押ししながら、麻乃と並んで歩く。


 海の潮っぽさを孕んだ四月末の夜風が心地良い。駅まで十五分ばかりの道はお互いにほとんど無言だったが、これといって話題がない。


 運動の苦手な麻乃は、アルティメットなんぞに興味を示さないだろう。


 そもそも麻乃を活かせるポジションがあるかなと考えてみたが、きっとハンドラーは向いていない。ディープも無理だろうから、となるとミドルしか残っていない。


 アルティメットのポジションは、ディスクを回す「ハンドラー」、中盤でつなぐ「ミドル」、エンドゾーンで点を取る「ディープ」の三つに分かれる。


 ハンドラーはいわゆる司令塔で、最後尾から中盤へディスクを運ぶのが主な役目だ。


 スローの技術に優れ、オフェンスのリズムをコントロールできるプレーヤーが望ましい。


 ミドルの主戦場は中盤で、相手ディフェンス(マーカー)を振り切ってパスをレシーブし、ディープへのパスも行う。走力スピードがあり、なおかつスローの技術のあるプレーヤーが向いている。


 ディープはエンドゾーンでのレシーブが主なので、スローのスキルは高くなくてもよいが、スピードとジャンプ力があり、とにかくキャッチが上手いことが求められる。


 七人のプレーヤーのうち、三人がハンドラー、二人がミドル、二人がディープという構成がよくある配置だが、ミドルとディープはほとんど区別がない場合も多い。


 あるてぃまを相手にスローのコソ練をしているアリサは、ハンドラーが適任だ。


 つばめの適役はミドルで、フィールドのど真ん中で踊るように敵を躱し、おちょくったようなスローを披露すればいい。常人とは異なる感性のファンタジスタだから、空間スペースも見えている。


 公称百六十八センチ、実際は百七十センチ半ばのお姉ちゃんはとにかく体幹が強く、走力がある上にジャンプ力も抜群だ。エンドゾーンにディスクを投げれば、ことごとくキャッチしてくれるだろう。だから、最終兵器お姉ちゃんを配備するなら迷うことなくディープだ。


 運動能力的にはこれといって特徴のない麻乃の使いどころがさっぱり思い浮かんでこないが、アルティメット部を作るならば、最低七人は必要だ。


 まずは人数を集めねばならないことを考えると、えり好みはしていられない。


「ねえ、麻乃」


 信号待ちをしているあいだに、それとなく切りだした。ヘッドライトをつけた車が通り過ぎ、信号が青に変わった。横断歩道を渡り切ったあと、麻乃がこちらを向いた。


「いっしょにアルティメットをやらない?」


 麻乃はなにも答えず、きょとんとしていた。


「あるてぃめっと?」


「そういうスポーツがあるの。バスケとアメフトを合わせたようなもので、ボールの代わりにフリスビーを投げるんだ。まずは部員を集めようと思ってて、麻乃も協力してくれたら嬉しい」


「私、運動とか苦手で」


 麻乃の声が闇夜にまぎれて、どんどん聞き取りづらくなってくる。


 よっぽど運動には苦手意識があるようだ。


「経験者はだれもいないし、みんな初心者だから大丈夫。フリスビーを投げて取るだけだから、球技が苦手でもぜんぜん問題ない。やってみたら、意外な才能があるかもしれないよ」


 だんだんセールストークっぽくなってきたので、あとは黙って麻乃の返事を待つ。


 自転車を停めて改札まで見送りに行こうと思ったが、麻乃は「ここでいいよ」と言った。


 中等部から入学してきた麻乃との付き合いはまだ一年ばかりで、完全に打ち解けているとは言いがたい。なんでも言い合える、つばめほど気安い仲ではない。


「アリサちゃん、今日はありがとう。楽しかった。遅くなっちゃったよね、ごめんね」

「ずっと留守番させてごめん」


 お互いに謝り合うと、どちらともなく「ぷっ」と吹き出した。


「私、邪魔じゃないかな」

「ジャマなのはまだ家にいるんだよね」

「ほんとうに仲がいいよね、つばめちゃんと」

「そう? そうでもないけど」


 アリサが苦々しげに言うと、麻乃が声をあげて笑った。


あるてぃまの名前は、もしかしてアルティメットからとったの?」

「ああ、うん。まあ」


 私が修養日誌に飼い犬のことばかり書いているのは、だれもが知っていることだ。


 なんとなくばつが悪いので、曖昧にうなずく。


「アリサちゃんはずっとアルティメットがやりたかったんだね。わかった、私もやってみる。ぜんぜん役に立てないかもしれないけど」


 おさげ髪を揺らしながら麻乃が改札のほうへ歩いていった。


 こちらに振り返り、「ばいばいアリサちゃん、また明日」と言った。


 麻乃はほんまにええ子やなあ、というオッサンみたいな感想がしばらく頭のなかを占拠した。

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